ひいおじいちゃんと、卵かけご飯。そして「人の本質は光だと思う」という話。
「いちばん古い記憶は?」と問われたら、なんて答えるだろう??
私が学び、特に支援の拠り所にしているプロセスワークでは「小さい頃にくり返し見た夢」や「いちばん古い記憶」を大切にしてる。そこには、その人が生きることになる「人生のテーマ」が隠されている可能性が高いと言われるのだ。
私にも、いくつか「古い記憶」があるのだけど、今日はその一つについて書いてみる。
寝たりきのひいおじいちゃんと、卵かけご飯
私が生まれたのは、三世代同居ならぬ四世代同居の家族。
生まれた時は、両親と、おじいちゃん、おばあちゃん、そして、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんと一緒に暮らしていた。
当時、ひいおじいちゃんは認知症で、自宅で介護をしていて、いつも奥座敷(仏壇や先祖代々の遺影がある部屋)で”寝たきり”状態。
私が普段その部屋に入ることはほとんどなかった。
でも、ある時、私は、どういうわけだか一人で奥座敷に行った……というところから、私の「いちばん古い記憶」ははじまる。
ハイハイをしていたような気がするので1歳以下だろうか?
(そんな時期の記憶があるのかはわからないけど……)
奥座敷に着くと、ひいおばあちゃんが、ひいおじいちゃんの食事の世話をしていた。
その時のメニューは、卵かけご飯。
特に変わったものではなかったはずなのに、その卵かけご飯はキラキラと輝いて見えた。
ものすごくきれいで、まるで「神様の食べ物」のようだった。
そして、それを食べているひいおじいちゃんは、シワシワでミイラみたいなのに、なんだか神様のように輝いて見えたのだ。
もちろん、あまりにも小さかったので「神様」という概念なんて知らなかったのだけど……
ただ、ひいおじいちゃんから受け取ったのは「この世のものとは思えない神々しいもの」という印象。そして、直感的に「まだ一人で近づいてはいけない」という、畏怖を感じさせるような圧倒的な存在感。
あまりにも強烈すぎて、今でもしっかり記憶に残っている。
人の本質は「光」なのだと思う。
ひいおじいちゃんが亡くなったのは、私が2歳の時。
ほとんど触れ合う機会はなかったし、一緒に撮った写真も残っていない。
当時のひいおじいちゃんは、死に近い場所にいたのだろう。
自分で動くことも、一人で食事をとることもできず、機能的能力はほぼゼロ。誰かのサポートがなければ生きていられない状態だった。
それにも関わらず、ひいおじいちゃんとの、本当に短いふれあいの時間が、私の人生の深いところに影響を与えていると思うのだ。
私は、ひいおじちゃんの姿に、人のなかにある「光」を見たような気がしている。
精神的な意味で、というよりも「光」が人の本来の姿なんじゃないか?という感覚だ。
「死んだ人は仏になる」と、幼い頃、何度も聞かされていたのだけど、もしかしたら死に近い方の「存在感」を指して、そんなふうに言っていたのかもしれないと、今になって見れば思う。
想像でしかないけれど、「死」って、その人の本性が現れ出るタイミングなのかもしれない。
だって、死に際しても、見栄や演技、ハッタリをかます余裕があるとは思えないので(それくらいの余裕をもって死を迎えられたら、カッコいいとは思うけれど)。
と、考えると「死の淵にいたひいおじいちゃんの姿から感じたのが、人の本性だったのでは?」というのが私の仮説。
そういえば、漫画「キングダム」の胸熱シーンの一つが、これ。
人は、弱くもあり、強くもあり、善くもある、悪くもある。
だけど、全部剥いだ「素」の姿は「光」。
だから、その人の「素」、その人らしい姿はどこか光って見えるし、そんな光に出会える瞬間は、とても幸せなものなのだろう。
(余談として・・・私は、別の機会で死に近い人に触れたとき「光」とともに「輪郭がぼやけてる」「なんとなく透けて見える」と感じたことがあった。もしかしたら、それも人の本性なのかもしれないと感じていることも、付け加えておく)
「測れないもの=価値がないもの」なのか?
ここまで書いてきたような、小さかった頃の私が感じたような感覚、そして死にゆく者たちの「存在感」は、現時点の科学では測定・数値化が難しいものだと思う。
ただ、だからと言って「測れないもの=価値のないもの」と片付けてしまっていいのだろうか。
それでは「インテグラル理論」でいう「フラットランドの罠」に陥る可能性が大きい。
数値として測れるもの、量として把握できるものしか見ようとしないと、大切なことを見過ごしてしまうような気がするのだ。
この話は、単なる「怪しげな話」だと片付けてしまうことだってできる。
「エビデンスはないし、子どもの頃の記憶なんてアテにならないし、気のせいだったんじゃない?」と。
だけど、私は、確かにこんなふうに感じたのだよね。
そんな主観的な事実も、大切にしたっていいじゃない。
だって実際のところ、あの時の体験は、今の私の人間観にものすごーーーく大きな影響を与えているのだから。
スピリチュアリティを探究することは、大切なものと出会いなおすこと
今になって思えば、もしかしたらひいおじいちゃんとの思い出は、自我を持った私としての「スピリチュアリティとの出会い」だったのかもしれない。
そして、誰にとっても、こういう「原体験」ってあるのでは?
その後の人生を形づくるような、メンタルモデルとか、マインドセットよりも、もっともっと深いところにある「生き方の態度」を方向づけるような何か。
そんな「自分が大切にしていた何か」「自分が大切にしたかった何か」を思い出すこと、出会いなおすことは、スピリチュアリティの探究……いや、もっといえば、自分にしか生きられない人生を歩むために、大切な忘れ物を取りに行くことなのかもしれない。
あなたにとっての「原体験」って、どんなものですか?
「人生を貫くテーマ」って、どんなものだと思いますか?
そんな探究のきっかけとして、こんな機会を活用してみてはいかがでしょう?
というわけで、ここからはお知らせです。
9月28日にプレセッション、10月11日からメインセッションがスタートするHuman Potential labのプログラム「スピリチュアル・インテリジェンス 〜思考の限界を超えて、究極の知性に出会う旅」。
9月28日(水)20時〜第0回のプレセッション開催!
「なんとなく気になる」という方、ぜひぜひお気軽にご参加くださいね。
*アーカイブ配信もあるので、リアルタイム参加が難しい方も、ぜひ。
(追伸)
ちなみに、私の大好物は「卵かけご飯」です。
オススメの「卵かけご飯素材」を教えてくださいm(_ _)m