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「『インテグラル理論』重版ありがとうございます」を記念して

https://www.amazon.co.jp/dp/4820727346/ref=cm_sw_em_r_mt_awdb_IyZgDb2YJS4E6

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「この本は、ちょっと大げさにいうと人生前半の節目的な仕事」と色んな場所で、色んな人に話してきました。

この大げさな言葉の意味を、どこかで綴っておきたいとは思っていたけれど、一方で、少しの照れや恥ずかしさもあり、迷っています。

迷った結果、

「もしこのマニアックな本が重版することになったら公開しよう」

というわけで、記録しておきたいと思います。

当然、重版はうれしいことだけど、この駄文を公開することは果たしてどうなのか。

微妙な思いはありつつ、ひとまず書きます。

最初に言っておくと、ほんとうに個人的なストーリー(しかも黒歴史ともいえるもの)です。

だけど、抽象度を高めながら読んでいただけると、「インテグラル理論」と出会ったあと、これをどう使っていくかを考えるとき、多少は参考になるのではないか、という願いも込めています。

と、能書きはこのくらいにして、本題に入ります。

はじめて「インテグラル理論」、つまり21世紀最大の思想家ともいえるケン・ウィルバーを知ったのは、たしか大学3年生(2002年)のことです。出会った時のインパクトはまったく褪せることはないのですが、それでもずいぶんと時は流れました。

出会いのきっかけは、本書『インテグラル理論』(「Theory of Everything」の翻訳書)の旧版、『万物の理論』の訳者、岡野守也先生の授業でした。岡野守也先生は、元々は出版社の編集長をされていて、ケン・ウィルバーの思想のほか、トランスパーソナル心理学などを日本に紹介した方の一人です。

当時通っていた大学でとった「現代社会と宗教」の授業を担当していたのが岡野先生でした。明確な意図というよりも、漠然と「何か知りたいことがありそう」という程度でとった授業だったので、単なるラッキーとも言えます。でも、振り返ると啐啄の機でもあったように感じています。

ちなみに、当時の私は、かなり世の中に対してナナメだった大学生でした。

当時学んでいた社会学的にいえば、完全なポストモダン病であり、重度のニヒリズムであり、面倒な家族の課題もあいまって、世の中に対して希望を見出せずにいました(見つけ出そうともしていないのに‼︎)。一方で、プライドが高く、自分に自信がないからこそ傷つくことから逃げていました(ハリネズミのジレンマ的な)。

ただ、岡野守也先生、そしてケン・ウィルバーが示してくれたものの見方、考え方は、そんな私をガラリと変えてくれるほどのものでした。

インテグラル理論を、誤解を覚悟でひと言でまとめるならば、「人、そして社会を含む世界全体の見取り図」です。

しかも、世界をあまねく捉えられる(水平的な視点)だけではなくて、人や社会の発達・変容・進化の可能性という垂直的な視点(レベル、段階)まで示してくれるものです。

私自身、根は素直な田舎者です。

人の潜在的な可能性って、ほんとにすごい!

この方向性ならば、世界に希望をもてる。今あるさまざまな社会課題を本質的に解決できるかもしれない。

それに、自分自身をより良い存在へと変容させることができるかもしれない。さらには、自分が成長することで、世の中に対して多少なりともインパクトを与えられるのかもしれない。

学んだ瞬間に、すーーーっと、こう思えたのです。

たぶん、この時に抱いた直感は間違ったものではないと思っています。

インテグラル理論のもつ可能性は、それほどまでに偉大なものだと、胸を張っていえます(インテグラル理論のもつ可能性を、今、編集者である私はどう解釈しているかというのは、機会があればまとめたいと思っています)。

ただ一方で、その用法(用量)には注意が必要だ、ということを自分自身の体験談をもとに、敢えて述べておきたいと思います。

そして、それが私自身の黒歴史でもあります。

もう少し昔話を続けます。

「インテグラル理論」および岡野先生から教えていただいたさまざまなことに、文字通りの意味で感銘を受けた私(当時、一緒に学んでいた仲間がいたので正確にいうと「私たち」)が次に抱いたのは、「この理論、思想をもとに、社会活動をしたい!!」というとても純粋な熱意でした。

当時の(今もそう大しては変わりませんが)「インテグラル理論」を取り巻く状況は、決して主流派とは言えないどころか、むしろ知っている人はごくわずか、限られた人間でした。

だとしたら、私たちが主体となってムーブメントを起こしていかなければいけない!
純粋な気持ちでそう思ったのです。

ちなみに、当時はいわゆる就職活動の真っ只中の時期でしたが、私は、就職活動をドロップアウトしました

その大きな理由のひとつが、学んだ理論と、自分が実際に取り組むリアルな仕事との間に「つながり」を見出すことができなかったということ。
(ほかにも理由があり、さらにドロップアウトしたこと自体は全く後悔してはいないのですが、これはまた別の話なのでここでは書きません)

ただ、こうやって言葉で表現できるのは、私が多少なりとも大人になり、成長したからであって、当時はよくわからないまま、理想と現実との間のギャップを痛感し、それでもなんとかもがき、足掻いていたという感覚です。

たとえるならば、世界地図を手にはじめて訪れる土地(しかもやたらと道は複雑!!)を歩くような感じでしょうか。
向かいたい方向はわかるけれど、目の前の路地をどちらに渡ればいいかはわからない。進んだつもりが戻ってくる。進んでいるのか、戻っているのかわからなく、そして右往左往する。お腹は空くし、疲れもする。だけどお金も食料もない……。

その後のことは色々と端折ると、なんやかんやと悩みを抱きつつ、生計を立てるため、そして直感的な理由から教育業界の片隅に身を置きつつ、「エコロジカルに持続可能な社会」という理想を実現するための社会運動へと活動の舞台を移していきました。

その運動は、ものすごく大きなムーブメントとはいかなかったものの、当時の自分たちの実力からすると、それなりにがんばっていたのではないかと思っています。
そして、よくあの環境の中でこれだけやったとも思います。我が事ながら当時の自分たちに対して「よくやったね」と言いたいです。

一般の方を対象に100人規模のシンポジウムを開催する、ということもありました。

ちょうどそんな時です。

その時、登壇してくださったとある著名な先生から、こんなことを言われました(私にとって大切なことので、もうちょっと正確に言うと、当時一緒に活動していた大学時代からの仲間が言われ、その言葉を後になってシェアしてもらいました)。

「君たちは何者になりたいの? 本当にそんなことしていて楽しいの?? そもそも君たちは何がしたいの???」

要はこういうことだったんじゃないかと、当時の私は受け取りました。

「言っていることは立派だけど、このシンポジウムをやったあと、具体的に何をしていくの? そして、現実問題として、実際に君たちには何ができるの? やるべきじゃなくて、本当にやりたいと思っていることは何なの? そして君たちには何ができるの???」

この言葉は、しばらく胸に刺さったままでした。

と言うもの、理想論から考えれば、こういうことをやればいいだろうという、「やるべきであろうこと」はわかっていました。

だけど、それを心の底からやりたいと思えない自分もいました。

やるべきだけど、動けない。そんな矛盾を抱えたまま、とりあえず「今、できること」をやっていたのが現実だったからです。

いわゆる自己一致ができていなかったのだろうな、と振り返ったら思えます。
インテグラル理論に当てはめていえば、左上(個人の意識、内面)の実践がないまま、右側ばかりを求めていました。ただ、そうわかるのも今になってこそのことです。(このあたり、詳しくは『インテグラル理論』の3章、7章を読んでください)

そんな自己矛盾を抱えていた活動は、早晩限界を迎えます。

きっかけは些細なことでしたが、私自身は長らく「理想が日常(現実)に負けた」と考えていました。いわゆるひとつの挫折の経験ってやつですね。

今となっては必要な経験でした。大きな学びでした。おかげで、私にとっての理想の叶え方は日常(現実)に根付いたものなのだと思えるようになりました。

でも、今よりだいぶ若い自分は、そうは思えませんでした。

恩師の岡野先生は、そんな若くて愚かな自分に対して、それでもなおあたたかい言葉をかけてくださいました。
先生が教えてくださったものは、ほんとうに素晴らしいものです。ただ一方で、それを実践できていないというもどかしさがありました。

喉に骨が刺さったような状態。誰も責めはしないけれど、何より私が許せない。

それでも、日常は続きます。

だから、「あえてこれまでやってきたことから離れよう」とも、どこかで思っていました。

つまり、理論を学ぶよりも、とにかく実践を積み重ねよう。
先に言葉をかけていただいたような「何者か」になれるかどうかはわからないけれど、今、自分がいる場、そして今目の前の仕事(そしてプライベート)に向き合って、人生からの期待に応えていこう。人生に対して、そういう態度をとろう。

活動をやめたのは、たしか27歳くらい?(記憶が曖昧……)
住む場所や働く場所、そして付き合う人が変わったり、自分の興味も移り変わったりもしたけれど、20代後半から今までの間(現在は38歳です)、基本的にはこのスタンスでやってきました。

そして、目指してなったわけではないけれど、偶然に導かれるようにしてビジネス書の編集者になり、イチ編集者として仕事をしている中で、再び、インテグラル理論と再会しました。

それは、昨年2月『ティール組織』を読んだ時のことです。

あーーーーーー懐かしい!

これがまず抱いた感想でした。

そして同時に、日本のビジネス界の中で、決して多数派ではないにしても、「インテグラル理論」が語られるようになったことに、純粋な驚きを覚えました。

方向性は確実にこちらではあるけれど、日本のビジネスの世界で受け容れられるのは、まだ先ではないかと思っていたからです。
(このあたりは、英治出版さんや関係者の皆さんの努力の賜物だなと思っています!)

そして、一人のビジネス書の編集者の立場から市場を見渡したとき、インテグラル理論関連の書籍は絶版状態…。

純粋なビジネス上のチャンスと同時に、もうひとつ、とても個人的な狙いもありました。

今ならば、前よりも上手に偉大な知と付き合えるかもしれない。

そして、長らく私のところで止めていたバトンを、次に渡せるかもしれない。

そんな思いから刊行を決め、なかなかしんどい編集作業を経て発売を迎えたのが、2019年6月15日。

そして、ほぼ2週間後の7月2日、たくさんの方の応援のおかげで、重版が決まりました。

たぶん、こういうストーリーをもっているのは私だけではないと思います。

この本の制作に携わった方は、訳者にしても監訳者にしても、あるタイミングでインテグラル理論に出会いました。元を辿れば岡野守也先生たちが紹介してくださっから生まれた出会いであり、プロジェクトだと思います。

ほとんどアクセスできる状態になかったウィルバー自身によるインテグラル理論の入門書(といっても簡単ではありません!)を、適切なタイミング(ティール組織がひとつのムーブメントとなり、さらに深く学びたいという方が現れている段階)で、世に出すことができたというのは、なんともふしぎな巡り合わせのようなものを感じています。

以上が、この本にまつわる私の個人的なストーリー。

そんなに変わったところはない、よくある話です。

オチもない話をここまで読んでいただき、ありがとうございます!

読んでいたらいたお礼に、少しだけはやく「インテグラル理論」に出会い、そして実践に失敗したという経験から、本書『インテグラル理論』の使用上の注意点を羅列しておきます。

・頭でっかちにならないでください。理論を学ぶのも大事なことだけれど、実践を積み重ねてください。理論がない実践以上に、実践がない理論は、時に害をもたらすかもしれません。

・まずは何より日常を大事にしてください。自分自身と近くにいる人に精一杯の労りの想いをもって接してください。たぶんそれがインテグラルな道への第一歩だと思います。

・自分の中に芽生えている感覚を大事にしてください。「あるべき」「あらねばならない」ではなく、それをどう受け止めているか、それをどう感じているかに耳を傾けてあげてください(たとえ受け容れられなくても全然恥じる必要はないことです。タイミングを待つタイミングなのかもしれません)。

・すぐにどうこうしようとしないでください。あたためておく期間も大事にしてください。健全な進化や発達は、ゆるやかに訪れるものです。どうか焦らず、自分の感覚に従って歩を進めてください。

・手に余るようならば、身近な人とシェアしてください。一人で抱え込む必要はないのです。理解を深めることも、実践することも、みんなでやったほうがうまくいく確率を高めます。必要があればお声がけください。

・「発達すること」「自らを変容させること」ことを追い求めすぎないでください。そして、発達・変容できない自分、そして他人を責めないでください。
発達や変容は目指すものではありません。それに、インテグラル理論は、自分や他者の可能性を知り、世界はどういうものかを認識するためにあるもの。自分や他人を裁くためのものではないのです。
自分や他人をジャッジするためではなく、世界を認識するときの見取り図として、あとは前提条件のちがう誰かと対話するときの共通言語として使ってほしいです。

そして最後に。

しばらくの間、『インテグラル理論』関連で、私にできることであれば「ハイ」か「イエス」でお引き受けしようと思っているので、気軽にご連絡をいただければ幸いです(内容やスケジュール的にムリな時はすみません🙇‍♀️)。

ご連絡先(柏原里美)
a.a.sinonome.a@gmail.com

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柏原里美|編集者・ファシリテーター
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