オールドタイプ(?)としての視点から
『『情況 2024年夏号 【特集】トランスジェンダー』 : 特集記事を総括する。|年間読書人』を読んだ感想
『「トランスジェンダリズム」側、つまり「LGBT活動家(運動家)」あるいは「トランス活動家(運動家)」と言われる人たちは』と、「つまり」で結んでいる事に悩ましさを私は感じています。これは本記事からの例で例えるならば「ニュータイプ側、つまりジオン公国の人たちは」と言っているようなものに私には聞こえているからです。
あと、また「トランスジェンダリズム」をこのような意味で理解されているなぁと感じました。本来の意味合いで捉えるならば「トランスジェンダリズム」というのは「ニュータイプ側」でさえないんだと私は思っているんですがね、別にオールドタイプに当てはまらない理論では無いのだから。
私からすれば「オールドタイプのロジックの中にニュータイプも存在しているのに何故争おうとしているのだろうか」に近い感覚ですね。言い換えれば「男女がわかり合えない」と嘆いているのと私からすれば変わりません。
それから最近見かけるようになっている『「ノーディベート」戦術』ってどこの誰が採っているの? 少なくとも私からすれば相手のレベルが低すぎたり、お話し合いにならなかったり、付き合いきれない場合以外には考えられない、理解できない手法なんだけれども。というのは、分かるように話しているつもりでいても伝わらないという事は確かにあるからね。むしろ「あなたの言っている事はわかりません」と頑なに「わかろうとしない行為」もまた「ノーディベート戦術」の亜種だと私は思っています。
少なくとも現時点において私自身は私自身の事をトランス派であると自認はしていないけれども、『「トランス派」によるバトラー利用は、自分たちに都合のいいところだけを切り取って利用する「美味しいとこ取り」でしかなく、バトラーのそれを理解してのものだとは言えない。』という意見に対しては「自分も理解できていると言えるのだろうか」とは考えさせられました。これは自己評価できるものではないですしね。ただ、『バトラーまで、一緒くたに敵視してしまっているのだが、それは誤りだ、という点』に関しては、私自身がその記事を読めていないので興味深くは感じられましたし、今ある知識の範囲で答えるのならば「それはバトラーにとって災難だったね」と感じられました。
『本誌に登場した「トランス派」だけを見て、「なんだ、反トランス派が言うほど、話にならない連中ではないじゃないか」と考えるのは「間違い」である。』という意見には同意できるかもしれない。まぁ、悪魔の証明になっちゃうんだけれどもね。ノーディベート派のトランス派と表現したらいいのかなの事が私もわからない(わからないと言うよりは知らないと言う表現の方が正しいかもしれない、話題に登るくらいだから存在しているのかな?とは思うんですけれどね、そこも不確かな感じですね)んですよね。
『さて、本誌に収められた特集論文は、次のとおりである。』、え、このジャンルについて話している人がこんなにいるんだって正直驚きました。あー、でも普段私が読んでいる様な著者はいないなぁ。
うーん、(私の想像する)世間的イメージとしては「フェミニズム≠トランスジェンダー(トランス派と訳すべきか、トランス活動家と訳すべきか、トランスジェンダリズム派と訳すべきか少し悩みましたが)」というイメージをお持ちの方が多いんじゃないかと思うんですが、私個人の意見としてはもう少しフェミニズムに触れてからトランスジェンダーの事について話された方が良いんじゃないかなと感じています。そういうフェミニズムの価値観に触れてこられた方々が、この特集にどれだけ参加されているのか私にはわかりませんが、少し不安に感じました。
『国会の場で「トランスジェンダー当事者ってこんな感じですよ」というのを味わってもらう。』というのは難しい意見だと思うんですけれどね。ただでさえサンプルの少ない中から実例として持ってこようというわけでしょ。
マイノリティっていつも構造的にそういう問題に曝されているんだけれども、「人間には男女の別がありますよね、そして男女の中にも年齢の差、職業の差、既婚か未婚か、子持ちかそうでないか、挙げれば切りが無いですけれども違いがあるわけですよね。サンプルが減れば減るほど(職場だとかスーパーだとか、それぞれの環境に限定される場合)は、本来ある人間の多様性が制限されて目の前に現れる」というバイアスから逃れ難いんですよね。
『よだかれん(依田花蓮)』さんと私の立場の異なるところは、「そういった人間の多様性というのは見えたり見えなかったりするものですよね」という部分でしょうか。例えばの話、「スーパーを利用する時にいちいち家族構成だとか予算だとか食の好みだとか色々あらかじめ答えなければ利用させていただけない」なんて事になったら私は息苦しく感じます。だから『トランスジェンダーが可視化されるようになります』というのが良い事なのか悪い事なのか、なんとも言えませんね。別に個人を特定しなければどうしてもいけないという訳では無いと思うんですが、そこら辺の塩梅がうまくいかないものですかね。「表現の自由を追いすぎると構造的にマイノリティの声というのが物量差で見えにくくなる」というのも確かではあるんですけれどね。
よだかれんさんの『明らかに女性の姿形になってないような方に関しては』という意見に関しては、ちょっとまってそれルッキズムじゃないの?ってまず思いました。日本人らしくない顔しているから職質に会いやすいとかなどと同程度の問題だと感じられたのですが、というのは女性が女性専用スペースを使おうとする場合限定での話ね。トランスジェンダーの事は一旦切り離して考えるけれども、外見で女性を女性から除外するという行為はこれまでも既に実際にあることだと思っていますが、私にはどう解決すればいいのか残念だけれども今のところわからない、しかしながらそういう現実を別に良いとも思ってはいないのだけれど、『やっぱり社会的な混乱を引き起こしたり、恐怖を与えてしまうということはあると思うので、それはもちろん許されることではない』って「誰が誰に許されることではない」のかな?
この問題はトランスジェンダーの問題として扱われているので気づき難いものとカモフラージュされてしまっていますが、正直私個人としてはこの発言は微妙に不味い方向へ一歩踏み出してしまっていると感じられました。
だから、この問題を語るというのは非常に難しい事を語っているんだという自覚を持って発言して欲しいところであります。私からすればトランスジェンダーに限定された話としてではなく、全ての女性(であろうとする者も含めてこの場合は言えるだろう)にとってそういう差別はこれまでもあったし解決法は未だ見つかっていませんとしか言いようがない。個別の回避方法としては身分証明というのがあり得るかもしれないが、それは職質の例え話と同じように「その場を回避できるかどうか」だけの問題であり、根本的解決方法を私は未だ知らない。よだかれんさんは「トランスジェンダーの問題に注視する様を見せることで、その差別について気づいていながら見つめていないのだろう事柄から視線をそらさせようと(無意識的にであれ)しているのだろう」としか私からは言えない。
『「みんなが馴れてくれば、完全な同権を実現して、肉体が男性のままのトランス女性も、女性トイレや女風呂が使用できるようになるのは、むしろ当然である」と考えているに違いない』、うーん、「一昔前の公園には共用のトイレしかなかったのよね、それが男女別のトイレが設置されて、男女別の多目的トイレが併設されるようになって、共用の多目的トイレの必要性も見直されてきて」って考えを巡らせていると、よだかれんさんの考え方は時代に逆行する考え方だと思うのだけれども、まぁ、時代に逆行している点だけをもって間違いだとも言い切れないんだけれど。
よだかれんさんについてが長いな。『こんなよだであっても「トランス派」の中では比較的「穏健派」であり』という意見については正直疑問に感じるけれど、「これで穏健派なの?」と記事を読む限りにおいては感じられました。ただ、先にも話したようにもともと少ないサンプルから例をもってきているわけでしょ?『「反トランス派」の指摘に「嘘」はなかったということが、ここで逆証明されたのである。』とまでは言えないんじゃないかと私には感じられるんですけれどもね。最近何となく私が感じられている事は、「トランス派」と呼ばれている人々の考え方が往々にして幼く感じられてしまうことが多い気がするんですよね。これはもともといた「トランス派」の人々がそれこそボロボロになって語れなくなってしまっていることを表しているのではないかと、(一時の間これらの話題から離れていた私個人としては)個人的には感じているんですよね(私より上の年代にものすごい沢山の人々が語られてきたはずなのに見渡すと生きているのか本当にって思えるくらい見当たらない)。なので若いなーと思いながら、まともに話をする機会もないので見守っている事しかまだ出来ていないと言える。と思って、よだかれんさんについて検索してみたら年上だったので少しびっくりしています。よだかれんさん、ごめんね。
『「トランス派」の「被害者アピール」は、それが事実だとしても、「旧来の世間の常識に生きる人たちへの配慮が無い」という点に問題がある』という、こういう視点はマズイと私は思っています。むしろ既にある差別の別のかたちでの焼き直しに過ぎず、(トランスジェンダーに対する差別としてではなく、女性に対する差別として)そんなあたりまえの差別は昔からあったよとしか私には思えません。
例えば、女子トイレから排除されている人々を集めて共用のトイレに放り込めば良い、などとは思いません。しかし、それ以上のアイディアが今の私にはありません。なので、フェミニズム的な言い方をするとこれは「逆アファマーティブアクション(逆優遇政策)」になるのでしょうが、暫定的に私はこの方針に立っています。これは(あまり良くない考え方ですが)女性を被害者だと仮定するのであれば「女性専用車両」が必ずしもアファマーティブアクションだとは言い難い、けれども暫定的に「解決法が無いのでそこに放り込んでいる」と私は「女性専用車両」の問題を捉えています(だから女性専用車両がガラガラなのを見ると毎回やるせない気持ちになりますね)。つまり、何度も言うけれど、「そんな差別は以前からありましたよ」ということです。その「以前からある差別」を良いものだとは言いませんが、新しい差別だと認識することこそがこれまでの被害者から目をそらす行為となってはいないでしょうか。
こんな低レベルの議論と思ってしまうのだけれども、「女は化粧をするものだ」とか「女だと思えないから女扱いしてやらない」だとか、もうね、いいかな、十分説明できてますよね?
あ、付け加えると、「相手の時と場合と都合で好き勝手に男扱いされたり女扱いされたり、男扱いされなかったり女扱いされなかったり」してきたわけですよ、誰もが。
少し当記事の下方まで来て、『先達たちの失敗は反面教師として教訓化できないということを教訓化しなきゃいけないってことなんだろうか。』という意見。おもしろいね、共感できる気がしないでもない。でも、それよりも私が感じている事は「反対派の一部にも賛成派の一部にも、話が通じている様に感じられない人々が存在しうる」という問題ですね。「話していけば本当にわかり合える時が来るのだろうか」という問題ですね、だからといって安易に話し合いを放棄しようとは思いたくないんですけれどもね。
当記事に対する私の総論としては、新しい空気に触れられたような気がする。私はこれまで(そうそう話したがる人も身の回りには少ないですしね)このジャンルでの話し合いには閉塞感を感じていました。何かに染まって何者かになってしまわないで指摘できることは指摘していってほしいと感じられました、私自身もそうですけれどね日々反省なのですが。
少なくとも、私に近い意見の人間の意見というのに触れる機会が少なかったのかなと感じたので、私の記事の幾つかを参考文献として以下に紹介しておきます(一応今のところ無料でやっていますし、有料化する予定は今のところありませんので、触れてみるだけならいいのでは?と)。
引用文献および参考文献
(引用 『『情況 2024年夏号 【特集】トランスジェンダー』 : 特集記事を総括する。|年間読書人』 )
(参考文献 性同一性障害特例法を守る会さんの主張について|Satomi Favilla )
(参考文献 逆活字中毒的なちょっとした思考実験|Satomi Favilla )
(参考文献 「問題へのアプローチ」に対するスキルとしての「手法の性差」について|Satomi Favilla )
(参考文献 表現の自由とDEI|Satomi Favilla )