性的マイノリティ、理解、配慮、不当な差別という表現

性的マイノリティという表現がどうにも肌に合いません。マイノリティである事が事実だとしても、マイノリティである事だけを差別の正当な理由とする事には嫌悪感を抱きます。マイノリティであるから何だと言うのでしょうか? 「日本人にとって国会議員である事はマイノリティだから差別(あるいは優遇)しても不当な差別ではない」というのと同じ理屈になるのでしょうか?

理解という表現もどうにも肌に合いません。あまりにも「理解してくれ」の様に「一方的な押し付け」として使われすぎて来たために理解という表現に嫌悪感を抱きます。これは賛成だとか反対だとかどちらかの意見に偏った感覚なのではなく、賛成派に対しても反対派に対しても感じられる事です。賛成派と反対派の「一方的な押し付け」によって血で血を洗うような争いを「理解」と理解増進法は表現しているのでしょうか?

配慮という表現もどうにも肌に合いません。負傷したら応急手当をする事がありますがそれは傷口の悪化を防ぎ自然治癒を助ける為であったり、治療の必要性を判断する為であったり、医者に掛かるまでの間に状態が急速に悪化しないようにする為であったりします。では「差別をしない」という事はこれらの内のどの部分に相当する言葉なのでしょうか?「差別をしない」という事は「配慮」なのでしょうか?「差別をしないという事は配慮である」とするのであればそれはどのように「配慮」であると言えるのでしょうか?「配慮」とは「差別をする」あるいは「差別を受ける」のが当たり前だという立場からくる一方的な価値観の押し付けではないのでしょうか。

不当な差別という表現もどうにも肌に合いません。「差別をしないでくれ」という事は「不当な差別」なのでしょうか?確かに「一方的な押し付け」は「不当な差別」と言えるでしょう。では「一方的な押し付けはやめてくれ」というのはどうでしょうか、双方向に言える事だと思います。私は現時点においてせめて性別違和あるいは性別不合の症状を有すると見込まれる人に対して「手術を受ける意思が無いのならば診察や医療は必要ないでしょう、ご遠慮ください」と言われる現状は何とかしてほしいと思います。既存の「性同一性障害≒医療≒手術」という言説のイメージが先行することによって、身体的精神的にまいった時に適切な治療機関に掛かれない(例:うつ病の専門医には掛かれても、性別違和あるいは性別不合がうつ症状の原因に深く広範に関わる場合においては適切に医療に掛かれているのかというと現状は困難であると言える、など)という状態が増進されかねないのは辛いことです。

本当にめんどくさいなぁって思うでしょ?安心してよ、私も自身および自心あるいは症状としての自分の感覚に対してそう思っていますから。その「めんどくさいなぁ」っていう部分が障害の症状の一部分なのよ、共感できていましたね?

私の夢は本を完成させることです。その本は500年後あるいは1000年後に完成するのかもしれません。それでも私はその本を誰かと共に読みたいと思っています。