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役者の仕事とは、
自分の肉体すべてを使って表現すること。

頭ではそう思っていても、
心とカラダがなかなかついていかない。

そこには【一歩踏み出す勇気】がいる。

自分のカラダ、心、思考のすべてを表現に使うと言うことは、役者ならば【全身が与えられた役になる】ということ。

その場で起こった感情、衝動を、
とにかく要求されている演技に繋げること。

そうしたいのにも関わらず、
余計な自我が邪魔をする。
余計な自我とは、今まで生きてきたなかで身につけた「処世術」みたいなものかもしれない。

この処世術から発生する自我は、
本来の自分とはすこし違う自分のような気がする。

私の場合で言うと、
「解って欲しい」という欲求が強い。

とにかく万人に理解して認めて欲しい。という自我がある。

そのため、
受け入れてもらえない
理解してもらえない/理解できない
などの場面に直面すると、
途端にパニックになるようだ。

そうなると反射的にへらへらとやり過ごしてしまう。
その場の状況や自分の心の状態と向き合うことから逃げてしまう。

自分のなかに起こる、葛藤や苦悩に対して敏感になりすぎて「演技として」受け止められなくなるのだ。

みなさんは映画や舞台を観て、
どんな場面に心動くだろうか?

登場人物が苦悩して涙をながしたり、
なにかに歓喜していたり…

そんな風に心の変化が大きく見えた時でしょうか?

心が大きく変化したり、動いたりする前には、
必ず大きな事件が起こっている。

当たり前のことだが、
なにも事件が起こっていないのに心だけが動くわけがないのだ。

しかし、私は【目の前に起こる事件】をしっかり受け止めることができない状態なのだ。
と気付いたのだ。

これは、
舞台にドラマを産み出そうとする役者の私ではなく、

【解ってもらえない】ということに傷付いている、
一個人の私がそこにいるのだ。

さあ、それに本当に気付いたらどうする?


日常生活ではへらへらと自分を逃がして上手く生きてきた。

しかし、舞台では、そうはいかない。

要求されている仕事は、
私がまさに「へらへらと自分を逃がして」きた部分【葛藤】を形にすること。

一歩踏み出すか、踏み出さないか。

今までの人生では、
「人に理解して認めてもらうこと」がすべてのゴールだったように思う。

演技することも、
結局ここがエネルギー源になっていたと感じる。

しかし、今の私はそれを求めていない。

本当の意味で、
人や自分の人生を動かすような感動を見たい。
見てみたい。

自分の自我を埋めるためだけではなく、
自分の人生、カラダを駆使してどこまでやれるだろう?

今はそこにしか興味がないのだ。

長いことカラダを占領してきた「処世術」は、
まだもう少し私を苦しめるかもしれない。

でも腐らず、諦めず、歩き続けたい。

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