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自我への探求
必要な自我といらない自我への気付き
演技訓練を続けていると「自我」について考えるようになった。
人はなにかアクションを起こすときに自我は必要であると考える。
人は自我を基にして思考を巡らせ行動をするのではないだろうか?
と、した時に。人の行動とはその人の基となる自我(これを信念とも言うのかもしれない)がどのようなものであるかで、大きく変わっていくのかもしれない…。
この人生の基盤ともなる「自我」について自分の内面を考察していた時、もしかしたら自我には二種類あるのかも??と思うようになった。
自分にとって「必要な自我」と「いらない自我」。そんな風に区別できるかもしれない。自分の体験を通してそう感じるようになった。
「いらない自我」で人生の大半を埋めていた自分
いらない自我。
そう言われてもピンとくるはずがない。自分のなかに「いらない」部分があるなんて思えないし、思いたくもないから。
私の場合はこの記事の出来事から「目立ってはいけない」という信念をつくっていたらしい。
わたしを縛っていた価値観 https://note.com/satomaki824/n/n8b8518b28815
そもそもが自分の存在を否定した信念を持っていた。そのため、なんとか自分の存在価値を見つけようとしていた。
なので、「周囲に認めてもらうため」や「自分の居場所をつくる」ことが人生のなかでも優先度が高かったように思う。そのため、必死に行動して色んなところで結果を出してみるのだが、いつまでもいつまでも人生は窮屈なままだった。
そして窮屈さを埋めるために「これなら満足するか??」とばかりに新しいことに手を出してみようとする。
今思うと、どこにも心が落ち着く場所がなくて、本当に辛かったように思う。
コロナ自粛が始まった時、ここで舵を切りなおさないと私はこの状態から脱出できないような氣がした。思い切って、納得いかないことは全部やめてみる覚悟をした。
手放すことは恐怖や苦痛も伴うこともあったけど、それはは重荷だったのだろうか?今では酷かった肩こりもかなり楽になった(笑)
そして、私の手元に残ったものは一つだけだったのだ。
役者がやりたい
色んなものを手放して残ったもの。
「役者がやりたい」ただそれだけだった。
それまでは「売れなきゃいけない」だとか、「有名にならなきゃ意味がない」だとか、余計なものまでごちゃごちゃとくっ付いていたけど、ただただ単純に「役者がやりたい」「魂が震えるような表現がしたい」それだけだった。
なんとシンプル…
じゃあ、あのごちゃごちゃくっ付いていた言葉ってなんだろう?
そう考察してみたとき、ハタと浮かぶ。
いらない自我とは自分を埋める「欲望」
もしかしたら、今まで私にごちゃごちゃくっ付いてたのは「欲」だったのかもしれない。そう思うと「認められたい」とか「居場所をつくりたい」なども自分の「欲望」だ。役者がやりたいだけなのに、「売れなきゃ」とか「有名にならなきゃ」って思考も「欲望」だ。
「役者をやりたい」という純粋な自我に「売れなきゃ続けられないでしょ?」とか、「有名にならなきゃ意味がないでしょ?」などをくっ付けて、目標をひん曲げていたように思う。
自分に価値を感じられず、それを埋めるための「欲」がいつしか「自我」となり、人生の大半をしめてきてしまった。
しかし、欲から生まれた「自我」は本来の自分から派生したものではないため、行動すればするほど苦しくなっていた。
それもそのはずで、本当の自分を否定したところから生まれた「自我」だから。
必要な「自我」は本来シンプルなものかもしれない
自分の「いらない自我」と向き合ったところで、じゃあ「自我」が無ければ良いのか??という疑問にぶち当たる。
そんなハズはないだろう。自我が無ければ、自分が無いのと同じ。じゃあ、どんな自我が必要になってくるのか??
その時、手元に残ったシンプルな自我に気付く。
「役者をやりたい」
私はただそう言っていた。
子どもが「○○になりたい」と言う感じに似ているかもしれない。子どもに「どうしてそれになりたいの?」と聞いたら、きっと明確な理由なんてなくて「だってなりたいんだもん」と言うだろう。
そうなんだ。理由なんて後付けで、肚の底から出てくる衝動的な想い。
もしかしたら、これを「お役目」と言うのかもしれない。自分がこの世に生まれて死ぬまでに遂行しなくちゃならない、お役目。
そこには自分を埋めるための欲はない。ただただシンプルで、願うような祈るような想い。
シンプルで純粋な想いだからこそ、それを守るのは大変なのかもしれないなぁ。
この「必要な自我」と「いらない自我」について考察したときに、ふっと思う。
「必要な自我」を遂行するとたくさんの人が幸せになるが、「いらない自我」を遂行したときは人を傷つけたり、悲しませることが出てくる氣がした。
なんとなく。なんだけど…
そうしてまた、私の「演技を探求する」旅は続く。