勝手な解釈からの脱却

日々、俳優修行はコツコツと続きます。
2年前の私と、今の私では大きく変わってきてるのを感じます。
演技への理解が少しずつ深くなると、
自分自身も変化していくのです。

演じる悦びが深くなっていくことで、
同時に人生を生きる悦びも深くなっていく。

これこそが俳優の特権なんだなあ。と感じます。

もちろん、この先にもっと大きな物があると信じて!

さて、本日のレッスンでは、
「役として存在したときに観客に思考を見せる」というところにトライ!

舞台上で台詞を言うには、なぜこの台詞が出てくるの?と常に思考、カラダ、台詞が繋がっていないといけない。

役の内面では色々な感情の機微、衝動などが常に動いているわけで、それが台詞に繋がっていくわけですが、もちろん台詞がない時間にも内面は動いているわけです。
その台詞がない時間に「役はいまどんな状態であるのか?」が観客にも見えてほしい。
それも表現となるわけです。

なにを考え、どう感情や行動が動くのか…
それを舞台上で感じ、カラダの表現へと繋げていく。

このときに重要なのが、
舞台上で常に役の思考を維持できるか?
ということだ。

役として存在するには、常にその役の思考で舞台上で起こる現実と向き合っていかねばならない。
その状態であるからこそ、役として内面が動くのだ。

しかし、未熟な俳優である場合、
【役の思考で舞台上に存在する】ことがまず難しい。

私の場合は台詞を雰囲気で読み、
ニュアンスで吐いてしまう癖がある。
(これを書いていて本当に恥ずかしい!)

生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ!
なんて、あの偉大な台詞を言おうものなら、
雰囲気で「苦しいんだろうなあ」と読み取り、そんな風なニュアンスで台詞を言ってしまう。

優秀な方ならお気付きでしょう?
これは、とっても稚拙な読み取りですね!!
(もう俳優と名乗るのやめようか?と思うくらい恥ずかしい!)

台詞を覚える段階で、この読み取りをすると私の脳には「苦しい」という刷り込みをしてしまうのです。
そして翌日、それを稽古に持っていって、
演出によって斬り捨て御免!とされるわけです。

この刷り込みは、私の個人的な「解釈」であり、
舞台上で生きている役の真実とは別であることが多々あります。

「それが問題だ」と言えば悩んでいるのだろう→悩んでいるということは→苦しいんだろうな。

↑私の頭のなかでは、このような連想ゲームが起こっていると思われます。

「私の頭のなかで」というのがミソで、頭のなかで「こうだろうな」と想像して思い込んでいる状態なだけで、舞台上での経験ではないという違いがあります。

じゃあ、解釈での演技はやめて、カラダごと役として舞台上にいて台詞を出し、体感してみよう!
としたときに、この「解釈」からの演技が「思い込み」となり、カラダと思考を繋げることを邪魔する。

私の頭では「苦しい」と思っているが、
その場で感じている内面はまったく違っているのだ!
しかし解釈して、それを思い込んでしまっている私は、内面の動きに気付かなくなってしまう。

これが解釈の大きな問題となることに気が付いた!

役として舞台上に生きる前に、
俳優として作品や台詞に解釈をいれないこと。

人生もそうであると思うが、
「その時になってみないと、どうなるかわからない!」のだ!

なにが起こるかわからない!という度胸を持って、人生も舞台上でも生きたいものである。

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