名前と父の幻影と生きていくこと
【名前と父の幻影と生きていくこと】
2020年にFacebookで投稿したものです。
「一気に読んでしまった」「共感した」「映画化したらどうだ?」などコメントを頂き驚きました。
物凄く個人的なことなので恐縮ですが、
誰かのお役に立つのかもと思い残します。
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わたしは「名前」のご縁について考えるときがある。
わたしの名前は「真樹」で真っ直ぐな樹だが、旦那さんは「成生」成って生える。
真っ直ぐな樹が成って生える。
そんな風にご縁があるひとの名前について考えた時期があった。
わたしの戸籍に父はいない。
顔も見たことが無いし、母から父の話を聞くこともほとんど無かった。
母から当時の話を聞くとしても、ほとんどは母の武勇伝的に話される。
(素面で話すことないので大抵は酒に酔っているとき笑)
母は川崎でも高級のキャバレーでNO,1、NO,2を争っていたほどのやり手(本人談)で、父はそこに来ていたお客さんらしい。
会社社長だったようで、もちろん妻子持ちだ。
母は自分の子どもだけは欲しいと思っていて、父との間にわたしが出来た。
その時、父は母に結婚するか?と持ちかけたらしいが母は断ったそうだ…。
わたしが赤ちゃんのとき、仕事に行っていた母の代わりに父がわたしを連れて行きつけの寿司屋へ。
タバコの煙が酷い店内にわたしを連れて行ったのを目撃した母は激怒して、それが原因で父との縁を切ったらしい…。
母が話す父のことったら、それだけ。
父とわたしがどんなだったか?
それまで母とどんな関係であったのか?
そういった話はまったく聞かない。
そのためわたしには「父親像」や「理想の男性像」がない。と、いうか、知らないから理想像が創れない。
そして母の口から男性への情愛の言葉は聞いたことがない。
母は男性に頼ることがまったく無かった。
生活も、住居も、自分ひとりで支えていた。
しかしホステスをしているので、家には色んな男性がやってくる。
父親不在のわたしとって知らない男性が頭を撫でてくれるのは、違和感しかなかった。
男性とのコミュニケーションの土台が無いのに、いきなり社交界デビューしてるような感じだ(笑)
(幼少期の父親との関わりは本当に大事だと子どもを持ってはじめて気付いた)
わたしもたまにお客さんにおこずかいを貰うこともあったが、あまり嬉しくはなかった。
そんな状況もあり、
男のひとはこうやって女のひとにお金を払って楽しむ生き物なんだな。と思っていたのかもしれない。
子ども時代に創りあげてしまった歪んだ価値観。
ここから今まで、
この歪んだ価値観のなかで男性を見てきたんだ。
そしてそのことをずっと隠し通してきた。
わたしが父恋しさを出すこと、知らない男性と関わりたくないのを母が知るのはつらいだろうと思っていたのだろう。
46歳になったいま、長く苦しんでいたのは、父への想いを隠して生きてきたことだと気が付いた。
もっと父への愛を感じて良いし、男性に甘えて良い。
偏ったコミュニケーションを払拭したいし、しても良いのかもしれない。
今朝、ふっと「わたしの名前は父がつけたのかも」と思う。
わたしが生まれた時の記録が唯一書かれた母子手帳。
確か、これに書いてあったはず。
改めて読み返す。
母は「真喜子」が良かったのに「真樹」と名付けたことが書いてあった。
誰が名付けたとは書かれていない…
日記のなかに近親者の名前は出てくるから、近親者であれば名前が出てくるはず。
母は仕事柄、既婚者と男女の仲になるのだが、付き合いがどんなに長くなっても相手の家庭を壊すことはなかった。
母なりの愛情なのだろうと今なら分かる。
母子手帳の日記には父の名前はどこにもない。痕跡もない。
…やはり、父かもしれない
子どもの名前を二人で決めたのならば、そこにはお互いの愛があったのだろうと想像した。
仲違いしていれば、子どもの名前を二人で考えることはしないだろう。
わたしは愛されていたのかもしれない。
わたしは生まれてきて良かったのかもしれない。
母がわたしのために必死に仕事をしていたのを見てきたから、ずっと生まれてきたことを後悔していた。
しかし、
父に会いたくとも、
出生の真実を知りたくとも
母が他界している今となっては
どちらも叶わない。
そう思った時に、
「過去の真実を知らないことを抱えて生きる」
この現実を生きることがわたしの課題なんだろうと思った。
沖縄のユタに聞いたら良いと勧められたりもしたが、それをしたところでこの気持ちが変わるわけでもない。
だって、そんな話を聞いたところで、
母も父も目の前にはいないじゃんか。
三線に出会った頃から、
頑なに蓋をしていた部分が緩みはじめた。
もしかしたら、
沖縄は父のルーツかもしれない。と思えることがあったからだ。
だから必要で出会ったのかもしれない。と思う。
でもそれが真実かどうかはわからない。
わたしがそれが真実だと思えば、
きっと真実なのだ。
母が亡くなったとき、
わたしは臨終に間に合わず病室に駆け込んだ。
そのとき母は、
病棟の看護師さんに囲まれていた。
看護師さんはみんな号泣していた。
口々にわたしに母への感謝を伝えてくれた。
入院していた、たった二週間で母は周りのひと達と信頼関係を作っていたんだ。
母は世間的には、
水商売のダメな女かもしれない。
でも愛情の深さをそこで知った。
きっと父に対してもそうだったのかもしれない。
お互いに深い愛だったから、
父は母に結婚しようと言ったし、
母はそれを頑なに断った。
母はその純粋さを表に出したら生きていけなかったのかもしれない。
ひとりでわたしと生きて行くと決めたから。
母は本当につらそうだった。
それは自分の深い愛情を隠すため、自分に嘘をついてきたからなのかもしれない。
わたしの右の足首
長いこと痛みがおさまらない。
右半身→男性性
足首→悲しみ
父への長い悲しみ。
そこを隠すためにずっと力んできたのか。
少しずつ緩めて行ったらいい。
もう隠さなくて良いんだ。
父と母へありがとう。
わたしと関わるすべてのひとへ、ありがとう。
みんな愛しているよ。
これまでも、これからも。
ああ。うまくまとまらない。
いや、こんなこと、まとまらなくて良いんだ。きっと。
一生抱えて生きていくんだから。