日々移動する寂しさを疑って信じてを繰り返すかたち。
は鳥飼茜の「地獄のガールフレンド」にて、22歳の社会人になったばかりの男の子が、付き合いはじめた31歳のバツ1シングルマザーの島田加南(主人公の一人)に言った台詞です。
恋愛における信じるって言葉を見かけると、僕は自動的に遠藤周作の「愛情セミナー」の以下の文言を思い出します。
恋愛をすることは「人間を信ずる行為」に繋がっている、と僕は一時期、結構大真面目に考えていました(今も半分くらいそう思っています)。
とはいえ、「地獄のガールフレンド」の22歳の社会人なり立ての男の子みたいな発言をしたところで、現実問題として31歳のバツ1シングルマザーを支えられるのか? と考えると難しいんじゃないか、と言うほかありません。
なんというか、二十代前半の男の子のすぐ形にこだわるスタンスを信用しろって言うのは無理なのでは? と個人的には思います。
もし、年上に信用してもらおうと思うのなら、羽海野チカの「ハチミツとクローバー」の真山巧の台詞の方が現実的です。
持っていたい、というのはお金のことで、真山が片想いしている相手の原田理花は夫に先立たれて、彼が残した全ての仕事を成し遂げること以外に生きがいを見出せていない女性でした。
真山巧が大前提として、片想いを周囲にいじられるキャラなので、気づきにくいですが、真山はちゃんと自分の好きな女性に必要なものを考え用意している節があります。
ハチクロには真山を好きな女の子、山田あゆみというキャラクターも登場します。もし仮に真山が山田と付き合うことになっても、真山はさきほど引用した台詞は口にしなかったように思います。
男の子って好きになった女の子によって、生き方って結構大きく変わるよね、と僕は思うんです。
もちろん、それは女の子も同様なのですが、まったく一緒だと語れないと感じています。ただ、この違いについて、僕は今、詳細に語ることはできないので、今回は割愛させていただければ幸いです。
男女に共通することとして、浮かぶのは西炯子の「なかじまなかじま」で「愛は命と引き換えでないと手に入らないもの」というような台詞です(曖昧な記憶ですが)。
「なかじまなかじま」の台詞に枕詞をつけるとすれば、今まで愛されてこなかった人間にとって「愛は命と引き換えでないと手に入らないもの」である、という文脈で語られています。
愛の価値は人それぞれですが、男女共通して自分は愛されるに足る存在ではない、と感じている人間にとって、それでも誰かに愛されようとする時、差し出せるものは命より他にないのでしょう(やや、オーバーな部分はあるにせよ)。
さてさて、今回テーマにしたいのは村上春樹の短編「日々移動する腎臓のかたちをした石」についてです。
最近、村上春樹の短編で好きなランキングをつけるとしたら何か? ということを考えていて、上位に入る作品の中で「日々移動する腎臓のかたちをした石」が浮かびました。
「日々移動する腎臓のかたちをした石」は高校時代に読んで、これは理解できる作品だ、と思った珍しい一編で冒頭は以下のように始まります。
これは殆ど呪いの言葉です。
「日々移動する腎臓のかたちをした石」を読んだ時、主人公、淳平が父親の「本当に意味を持つ女」の二人目は彼女だったんだ、と気づく内容になっています。
この点だけ見ると、淳平の中には父親の呪いは残っているように読めますが、その後に以下のように続きます。
淳平は、この時点で父親の呪いを乗り越えたような気がします。呪いはかからないなら、それに越した方が良いに決まっています。
けれど、呪いにかかっていたからこそ「日々移動する腎臓のかたちをした石」の淳平はさきほど引用したような、結論を得ることができました。
また、同じテーマとして吉行淳之介の「砂の上の植物群」という長編小説があります。こちらは、「勘違いするな、三十四歳で終わった俺の人生のつづきを、お前に引継がせているのだ。」という父の呪いのような声が聞こえてくる、というものでした。
こちらも、最後には「これからのことは、既に亡父とは無関係のことなのだ」という場所までたどり着きます。
僕は呪いの言葉を必ずしも肯定はしませんし、できませんが、呪いの言葉を乗り越えることは一つの人間的な成長を遂げる瞬間なんじゃないか、と思います。
ちなみに、弟が二十歳くらいに、この「人が一生に出会う中で、本当に意味を持つ異性は三人しかいない。」としたら、何人と出会っている? と尋ねてみたことがあります。
返答は「うーん、もう既に三人以上と出会っている気がするんだけど、兄貴、俺はどうしたら良い?」と言われました。
そのままの君で良いよ、と当時は答えました。
弟は今年二十八歳になりました。
今、彼に同じ質問をしたら、答えは変わるんでしょうか?
今度、試してみたいと思います。
―――――――
はしがき
なんてことを書いたのも二年弱前で、弟は今年三十歳になります。
驚きです。
僕がすでに三十代ってことよりも衝撃的です。何でなんですかね? やっぱり弟ってずっと若いってイメージがあるからなのかも知れません。
さて、三十代って話で言うと「地獄のガールフレンド」もそうだし、海野つなみの「デイジー・ラック」も三十代前半もしくは、三十歳になる女性の物語になっていて、個人的にこの手の話が僕は大好きです。
改めて、そう思ったきっかけが昨日、見た「すーちゃん まいちゃん さわ子さん」の映画でした。今回が三回目だったんですけど、見る度に新しい発見とていねいに日常を生きようって思わせてくれる名作でした。
一つ引用させてください。
この引用は、すーちゃん(柴咲コウ)の後半の独白なんですけど、この「わたしが選んできたことは全部間違っていたの?」に対する答えが「すーちゃん まいちゃん さわ子さん」は全然、押しつけがましくなくて素晴しいんです。
あと、僕もすーちゃんの言う「寂しい感じ」に関しては幾度となく体験しているので、めちゃくちゃ分かる。
こちら予告編です。実際に映画を見ると少し違った印象を受けるんですが、三回見て、好きな台詞をメモに書き出し始めた僕からすると、この予告は上手い仕掛けになっていて、全部見た後にもう一度見ると「あ、なるほど!」と思えるようになっています。
ぜひ、一度見てみていただけたら幸いです。