【掌編】イマジナリー・ガールフレンド。
思い出って場所や物に宿るのかも知れない。
マクドナルドのハンバーガーを食べる度に、元カノの家から帰る道を思い出す。駅前のマクドナルドでハンバーガーを二つテイクアウトしスーパーでビールを買って帰宅して、それを食べながら海外ドラマを見る。
恋人の家で一晩過ごした後の充実感とほどよい疲労からくる眠気。ハンバーガーとビールが片付くと僕は大概ソファーで寝落ちした。
それが僕の幸せな時間だった。
もう三年前なのに昨日のことのように思い出せるのは、やはりマクドナルドのハンバーガーを食べているからだろう。
「なんというか、そういうエピソードを私の前で言える神経が凄いよね」
「え、いや、元カノじゃなくて、その子の家の帰り道を思い出すって話だよ?」
「より悪いよ。一晩過ごした後って言うのが、もうちょっと嫌だし」
「枕が変わると、上手く寝れないんだよ」
「それは昔からだから知ってるけど」
僕と伊吹はショッピングモールのフードコートに向かい合って座っていた。
本日は12月24日、クリスマス・イブだった。
昼過ぎのフードコートには心なしか若いカップルが多く見受けられた。彼らは日が暮れるまでに、イルミネーションや各々の家へと向かうのだろう。
そんなカップルにとって特別な日に僕は。
「なによ」と伊吹は不機嫌そうに僕を睨んだ。
「いいや」
「明日はどうする?」
「ん、クリスマスでしょ? そりゃあ、ケーキを買ってチキンを買ってお祝いするでしょ」
「伊吹はなにケーキが好き?」
「チョコレート!」
「一緒だね」
「ま、私は食べられないけど」
「だよね」
と僕は口元をひきつらせて笑った。
三年前の元カノの家から帰る時はハンバーガーを単品で二つ買ったが、今日はセットで購入した。
伊吹の前には何もない。時々ポテトに視線を向けるが、手を出そうとはしない。
ストローでコカ・コーラを一気に飲んでから「伊吹は昔の僕を知っていて、僕は昔の僕を知らない」と言った。
「うん」と伊吹は頷く。「私は今の君を知らないけど、昔の君は知ってる」と続けた。
「そして、伊吹は僕のイマジナリーフレンドだった」
彼女と顔を合わせるようになって、何度目かの確認だった。
伊吹は口元だけに笑みを浮かべる。
「違うよ。私は君のイマジナリー・ガールフレンドだったの」
イマジナリーフレンドは一般的に「想像上の友達」であり五、六歳から十歳頃に出現して、数ヶ月で消失する。子供にとって実在するように感じるが、周囲の人間は確認できない。
あくまで、その本人だけが見て会話できる友達。
伊吹が姿を見せるようになってから、イマジナリーフレンドを調べてみると、同性で同年齢で人間の形をし、友達の役割を演じることが多いらしい。
そう言う意味で、伊吹はイマジナリーフレンドとは少し違う。
彼女は二十二歳の僕の前に突如現れて、ガールフレンド、――恋人だと言う。
想像上の恋人と考えると、僕は元カノにフラれたショックで変な幻想に囚われてしまったのだろうか、と疑ってしまう。
僕は三年前のクリスマス前に恋人に別れを告げられた。
未だに僕は恋人のイベントに彼女がいたことがない。
伊吹の登場はあまりにも都合が良かった。
けれど、しばらく顔を突き合わせて話してみると、伊吹は僕しか知らないことを知っていたし、更に僕すら知らないことも知っていた。
僕は幼少の頃、女の子として育てられた。きっかけは覚えていないが、原因は母方の祖母だった。それは覚えている。僕は祖母の前では女の子として振る舞わなければならなかった。
母も父も祖母の前では僕を「伊吹ちゃん」と呼んだ。祖母が名づけた僕のもう一つの名前だった。
写真もビデオも残っているが、僕の記憶には一切残っていない。十八歳で家を出る時、一度その写真とビデオに向き合おうと思ったが、写真を見るだけで気持ち悪さが込み上げてきて、直視できなかった。
僕は僕が「伊吹ちゃん」だった時の記憶は曖昧だ。
しかし、目の前にいる伊吹はその当時の記憶をそっくりそのまま持っていて、また僕の恋人だと言う。
「将来、結婚しようとは約束しなかったけど。ちゃんとお互い好きだって確認しあって、キスもしたから立派な恋人関係でしょ?」
記憶はない。
祖母の家に行くのは毎回緊張して、朝からお腹が痛くなり、足が重くなったのは覚えている。母も父も余裕をなくし不機嫌になって、言葉が強くなるのも僕の気持ちを憂鬱にさせる一因になった。
伊吹は母と父、また祖母のことをどう思っていたのだろう。
「弱い人たちだったんだよ。世界が自分の思い通りに進まないことを認めらない弱い人。けど、それは仕方ない。だって、人が見える範囲は限られているから」
と伊吹は腕を組んで少ししてから言った。
僕は幼少の頃、それほど達観していたとは思えない。
伊吹は僕が望んだ理想の存在なのかも知れない。
「それで伊吹はどうして何十年も経った今、僕の前に現れたの?」
「分かんない。けど、多分、お婆ちゃんのいたところに行けば分かると思うんだよね」
お婆ちゃんのいたところ。
三年前に祖母は亡くなった。
その頃には介護が必要な状態になっており、週に何度かヘルパーさんが家を訪れていた。母も時間がある時は祖母の様子を見にいった。
僕も何度か母に連れられて行き祖母の家の掃除を手伝った。祖母はしっかりとした声でお礼を言ってくれた。元気そうだったね、と帰りの車の中で僕は母に話した。
祖母は家の裏にある山へ通じる道路で倒れていた。発見したのは母で、救急車と警察を呼び亡くなっているのが確認された。山には先祖の墓があり、その日は祖父の命日だった。
伊吹の言うお婆ちゃんのいたところが、祖母の家なのか、遺体が発見された道路を指しているのか分からないけれど、行ってみる価値はあるだろう。
僕は三年前に元カノと別れてからは、恋人ができる気配もない。クリスマス・イブだからと言って行く場所も会う人もいない。
伊吹が行けば分かる、と言うのだから祖母の家を訪ねるのも悪くない。母の話では現在、祖母の家は叔父が住んでいる、とのことだった。
叔父に連絡を入れると、昼間は仕事でいないから勝手に上がって良いと言われた。ポストに鍵が入っていて、ポストを開ける為のダイヤル錠の番号を教えてくれた。
今僕が住んでいる町から祖母の家は新幹線と電車を乗り継いで三時間だった。
昔の僕を知っていて、恋人だと言うイマジナリー・ガールフレンドと同中会話を交わしながらなら、三時間はあっという間だった。
問題は伊吹が僕以外には認識されない、という点だったけれど、スマホを耳に当てれば怪しまれなかった。マナー違反だと顔をしかめられることは度々あったけれど。
祖母の家の近くに到着したのは、お昼だった。そのまま真っ直ぐ向かっても良かったが、伊吹がランチにしない? と言うので、近くのショッピングモールに入り、フードコートでマクドナルドを買った。
ランチに誘った伊吹は何も食べず、僕だけがハンバーガーを頬張っているのは少し不思議だった。
「伊吹も食べれば?」
「いじわる」と伊吹はすねた表情を見せた。
そんなつもりはなかったが、なんと言えば良いのか分からず、残りのハンバーガーを口に詰め込んだ。伊吹は周囲に認識されていない。僕は触れることもできるし、街中を歩くと通行人は彼女を避ける。透明人間みたいに人や物を通り抜けることは伊吹にはできない。
伊吹は実際に存在している。
ただ、彼女は僕にしか認識されていない。
そんな伊吹が「お婆ちゃんのいたところ」に行くことで、どうなるのか予想もつかない。良い方に転べばいいけれど、今の僕はその「良い方」がどうなることなのかも分かっていない。
ショッピングモールを出て真っ直ぐ祖母の家を目指す。途中、川沿いを歩いている時、伊吹が感嘆の声をあげた。
「懐かしい! この川、覚えてる?」
「覚えてるよ。色鮮やかな鯉がいたよね」
「いたね! 今もいるのかな?」
「どうかな?」
祖母が生きていた頃、この川には鯉がいた。他の魚とはまったく異なった存在に目を引かれたのを覚えている。
あの頃、祖母は鯉について何と言っていたっけ。
「ねぇ、君はクマノミの話って覚えている?」
伊吹が言った。
クマノミ? 確か海水魚でオレンジの体に白いラインが入っていて、水族館でも人気なイメージはある。
「クマノミの話ってなに?」
伊吹は一瞬、視線を伏せてから「覚えていないなら、いいや」と笑った。
川沿いをしばらく歩いてから、橋を一つ渡って山の方へ進むと、大きな道路にぶつかった。信号を渡って道路沿いを歩くと祖母の家だった。
玄関前のポストのダイヤル錠を叔父から聞いた番号であけて、家に入った。祖母の家は玄関の他に裏口もあって、母と行く時はいつも裏口からだった。
「玄関から入るって、ちょっと新鮮だよね」
と伊吹が言った。
「だね」と僕も頷いた。
玄関に入ると、すぐに来客用のソファーとテーブルがある。靴を脱ぐと、伊吹が「懐かしい!」とソファーに座った。
部屋は薄暗かった。
電気は部屋の奥にあるので僕はスリッパを履いて、伊吹の前を通り過ぎようとした。
その瞬間、
「女の子になりたいってどういうこと?」
と言った。
ソファーに座った伊吹を見た。彼女は無表情だった。
「浩介、本気で言っているのかい?」
僕の名前だ。伊吹はずっと僕を「君」と呼んでいた。
「浩介?」
彼女の言う「浩介」という響きには聞き覚えがあった。
「婆ちゃん?」
「なんだ、そこにいるんじゃないか」
伊吹の目は僕を捉えていなかったが、今の彼女の中にいるのは祖母のようだった。
お婆ちゃんのいたところ。
確かに今、伊吹が座っているソファーは祖母の場所だった。
「浩介、本当に女の子になりたいのかい?」
繰り返すように祖母が言う。
意味が分からなかった。
「なりたくないよ。僕を女の子にしたかったのは、婆ちゃんでしょ?」
「私? 私はどっちでも良いんだよ。浩介がなりたいものになれるなら」
僕がなりたいもの? なりたいってなんだ? 僕は別に男を選んで生まれた訳じゃない。けれど、男なのに「伊吹」って女の子扱いするから、僕は――。
視界が光で弾ける。
伊吹が部屋の電気を点けたのだと分かった。
「思い出した?」
「分からない。けど、……クマノミか」
クマノミは最初オスでもメスでもない両性生殖腺として生まれる。そして、イソギンチャクのまわりに数匹のグループで暮らし、最も大きく成長したクマノミがメスになる。
「そうだよ。君はクリスマスに女の子になりたいとお婆ちゃんにお願いしたんだよ。だから、私が生まれた。君が女の子になれる可能性を残す為に」
「今、僕が女の子になりたいって言ったらなれるの?」
「願えばね」
祖母は魔法使いだったのだろうか。
「どうして僕は女の子になりたかったんだろう?」
伊吹は僕の手を取って玄関で脱いだ靴を履く。僕もそれに倣って、足に靴を入れる。
庭に出る。両親と祖母の家にくる時は玄関前に車を止めた。
「ねぇ、思い出って場所や物に宿るって本当だとしてさ」
「うん」
「君にとって、この庭にはどんな思い出が宿っているんだろうね」
そう問われて、記憶の襖がすっと開く。そこに広がる過去の一場面は夜だった。父の車の後部座席に座った僕は父に殴られていた。蘇った記憶のくせして、一定の生々しさを備えており、当時の恐怖が身体の芯まで湧き上がってきた。
父は幼少の頃の僕に男なら強くなれ、と口を酸っぱくして言った。
強くなった男がどういう存在か分からないけれど、父はそうなのだろうと思った。だから、父の言葉使いを真似た。
親戚の集まりで僕の言葉使いは生意気だと思われたらしい。何が悪いのか分からなかった。
ただ、帰る為に乗り込んだ車の後部座席で父は僕を殴った。「なんだ、その生意気な喋りは」「俺をバカにしているのか」「誰に育ててもらっていると思っているんだ」と何度も殴った。父の拳は大きく、殴られる度に車内に血が散った。
僕は痛みの中で繰り返し謝ったが、許されなかった。
母が助手席に乗り込むと父は僕を殴るのを止めて、車のエンジンを入れた。帰り道の景色は痛みと共に視界に焼付いた。
家について、母は初めて僕が殴られていたことに気づいた。
「お父さんにやられたの?」
と母は言った。
僕はなんと言ったのか覚えていない。ただ、心配されていないのは分かった。
翌日、父は僕をラーメン屋に連れていった。まるで不良漫画の一場面みたいだった。
うんざりした。父はラーメンを奢ることで、すべて終わりにするつもりだった。
その時だろう。
僕が殴られて口の中が切れた状態でラーメンを食べさせられているのは男だからで、もし女の子だったら、こんなことはなかっただろう、と思ったのは。
男は強くなれ、という言葉が嫌いになった。
強くなろうとすれば、更に強い何かに理不尽に痛めつけられて、従順であることを求められる。
なら、強くなんてならない。
男がそれを許されないなら僕は女の子になりたい。
女の子には女の子の大変さがある。それは今なら分かる。けれど、当時の僕は本気でそう思った。
「最悪な思い出」
僕の小さな呟きに、伊吹が「まったくだよ」と同意した。
「どう? 君はこの先、今より強くなることを求められる。更に、男であるというだけで痛い目に遭って、それが当然だって周囲からは見られる、かも知れない。あの時のお母さんみたいに。ね、今なら、女の子になれるよ」
「確かにね」と僕は口元を緩めた。「けど、僕はもう歳を取り過ぎちゃったよ。今から女の子として人生をやってはいけない」
「そっか。けど、それって諦めじゃないの?」
「諦めだよ。常に前向きに生きるなんて無理だよ」
「できれば、ポジティブな気持ちで男であることを選んで欲しいんだけどな」
「難しいな」
本当に難しい。「けど、僕の人生の中には伊吹がいて、女の子になれる岐路があったことは忘れないよ」
「お願いね。私がいたこと、忘れないでね」
「もちろん」
「じゃあ、それでいっか」
言って、伊吹は手をあげて大きく伸びをする。
「ちなみに、伊吹。どうして今だったの?」
「人生は二十三歳ですべてが決まるからだよ」
「なんで?」
「さぁ。お婆ちゃんが、そう言っていたんだ」
「ふーん」
伊吹は腕を広げて、僕に抱きついてきた。
柔らかく温かな感触が確かにあった。
耳元で伊吹が言う。
「頑張ってね、浩介」
「初めて名前を呼んだ」
「浩介は自分の名前、あんまり好きじゃない気がしてね」
そんなつもりはないけれど、伊吹の言う「君」にどこか安心している僕がいたのは確かだった。
「私、実は浩介って名前、好きだから。最後に呼べて良かった」
「僕も伊吹に名前呼ばれて良かった」
けど、最後? と僕は尋ねた。
「うん、最後」
だから、と伊吹は続ける。「ショッピングモールのフードコートとか、川沿いを歩いたり、お婆ちゃん家の庭に来たら、私を思い出してね。そこに私はいるから」
「うん、忘れない」
忘れられる訳がない。僕の最初の恋人(イマジナリー・ガールフレンド)。優しい伊吹。
瞬間、柔らかく温かな感触は消えた。
代わりに目の奥がじんわりと熱くなった。
二十二歳の12月24日、クリスマス・イブ。
今年も明日のクリスマスは一人で過ごすことになりそうだ。
けれど、それで良い。
一人でケーキを買ってチキンを買って祝おう。
ケーキは伊吹が好きだと言ったチョコレートにしよう。
了