元気をもらう
そもそも、「元気」は、心身の私の状態なのだから、それを人から「もらう」などということは出来ないのでは。
だから正確に言うと、私が元気な状態になれるように、誰かがサポートしてくれた、ことを言っています。
月曜日、どうしても体が動かない。でも、本当は動きたいのだ。とりあえず、布団からは出る。心が疲弊しないような、好きな映像を見ていると、、、
このところ一緒に仕事をさせてもらっているある女性から、ぱっと花が咲いたようなLINEが入った。今取り掛かっている案件が、「うまく行く気しかしない‼」という短いLINEだったが、
私はこの動かない体も心も、瞬時にあっためられた気がするのだ。もしかしたら、この人は、全てお見通しのうえで、励ましのメッセージをくれているのではないか、と思った。
それなのに、ダッシュが出来ない今の私で申し訳ない、と思う。そして、私は私の勘違いに気付く。私がやることは、彼女の為にやっている、という思い。冷静に考えたらわかるのだ、彼女は私の為に言ってくれていることがほとんどだが、私は私を全うさせたいがための行動なのだから。
それでも、自分の為に、は、苦しいのだ。
だから、息を吸うようにナチュラルに、自分の行動を誰かの為とリンクさせて動いている私がいる。
それはつまり、誰かのために動くことが、自分の喜びであるから、結果自分を喜ばせるための行動なので、自分の為なのだが。面倒くさい私は、ダイレクトに自分の為が目的に来ると、じゃあ、、別にどうでもいいかな、、と感じてしまう。
私の行動で、一旦誰かに喜んでほしい。というのは、もう卒業したと思ってたんだがな。
以前の私は、承認欲求の塊だった。自己顕示欲も強く、、まあ、いまでもそうだが、少なくとも自覚できている時点で成長したと言える。さり気なく相手に気付かれずに善行を行うなんて、、、へ?気付いてもらえないならしません、と考えていた(ことにも気付いていなかった。。)。
人が私のお陰で喜ぶ。そして相手は私を認める。そこで私は自分を認める。そのために、アルバイト時代からよく働いた。人が面倒くさがることもよくやったし、相手のことを知りたくて仕事外の付き合いもたくさんした。社会に出てからも、とにかく仕事を一所懸命やった。絶対に誰かが見ていてくれた。褒めてくれた。私は心が満たされた、、、はずだった。
でも、足りなかった。何が足りないのかわからなかった。なんで、こんなに頑張って頑張って、必要とされていることがわかるのに、
いつだって自信はないし、劣等感に苛まれる。
人生も半分を過ぎた頃だろうか、やっと気づくのだ。私が私を認めてなかったのだな、、、そこらへんの自己啓発本も、セラピストもみんな言っているのに、なんと私もそうだったとは、、、
私の自分との和解方法は、また別途。自信満々とはいかないけれど、家族を信じられたり、親友を信じられたりするよりも、もっと、自分のことは信じている。
しかし、副作用があったのだ。自分を発見した私は、今度は「人の為」を一切切り捨てて、自分の為かどうか、が唯一の判断基準となった。極端だねえ、、、
その自分オンリーの時期が数年続いた頃、またもや行き詰まりを感じてしまう。その葛藤の中で、ようやく、自分の為と人の為が、より大きな概念である「自分の為」に集約されていくことになる。
そして私の喜びの大きな部分は、誰かの為に動くことだとわかり、、
冒頭のように、仮想誰かの為、がナチュラルに発動してしまう。これって、技法としては良いんだけど、私が逆にやられたら、相当に気持ち悪いので、、どうしたもんかのう、と思っている。