見出し画像

パーフェクト・セブンティーン 佐々木朗希と東野峻

 野球は失敗に寛容なスポーツです。打率3割の好打者は他の7割で凡退しているとはよく言われる話ですが、完全な結果など求めなくて良いのです。たぶんそれは野球に限らない人生の極意でもあるのでしょうし、だからこそ、このスポーツが多くの人々の心を惹きつけるのだとも言えます。

 ピッチャーについても同様で、ヒットを打たれることもあれば失点することもあるし、敗戦投手の責を負うこともあります。野茂も松坂もダルビッシュも投げた全ての試合で勝つわけではありません。田中将大は2013年に24勝無敗の驚異的な記録を残しましたが、キャリア全体で負けないわけではないし、今でも伝説として語られる斎藤佑樹擁する早稲田実業との甲子園決勝に敗れています。

 失敗して、時に敗れても輝ける。それが野球です。しかし、ピッチャーには例外的に《完全》が存在します。

 令和4年4月10日。千葉マリンスタジアムのマウンドに立つ佐々木朗希が投じた105球目に、オリックスの代打・杉本裕太郎のバットが空を切りました。この日19個目の奪三振で日本記録に並ぶと同時に自身初完投・初完封を達成しています。さらに佐々木は、この試合で日本新記録の13者連続奪三振を記録しました。何より、この試合の彼は《完全》でした。

 対戦した打者27人のうち誰一人として出塁させず完封するパーフェクトゲーム。NPBの公式戦では28年振りとなる大記録が果たされたのです。




 高校時代より「令和の怪物」と評されてきた佐々木が令和時代初の完全試合を達成したことは、まさに面目躍如といったところでしょう。日米通算170勝を挙げ「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔もこの大記録には手が届きませんでした。

 平成の30年余りの間にNPBで達成された完全試合はひとつしかありません。平成6年5月18日に、巨人の槙原寛己が福岡ドームの広島戦で記録したのが唯一です。この時もまた昭和53年に阪急の今井雄太郎が達成して以来16年振りというブランクがありました。

 野球にも人生にも存在しないはずの《完全》を掴んだ槙原と佐々木。ふたりとも高校時代より速球を注目されてドラフト1位指名された右腕でした。背番号も同じ17です。この17という数字は、日本プロ野球史上初の完全試合を達成した巨人の藤本英雄が身に付けていた番号でもあります。

 こうした共通項を見つけることは単なるこじつけとも言えます。観客は共通項から何らかのドラマを見出すことができますが、ドラマチックな大記録は共通項が生み出したものではありません。佐々木の完全試合は佐々木本人が凄かったから果たされました。他にもルーキーキャッチャー松川虎生のリードや、当日の気候条件、対戦相手のコンディションなど、様々な要因が絡み合うことで生まれたものです。少なくとも背番号が17だったから完全試合が達成されたわけではありません。

 もしも共通項が《完全》を導けるというなら――。

 佐々木朗希という若き大投手が球史に残る偉業を達成したことを知ったとき、ぼくは7年前に引退したある投手のことを思い出していました。




 平成19年9月。5年振りのリーグ優勝へ向け正念場を迎えた巨人は、背番号93の高卒3年目の投手を二軍へ降格させました。彼は数日前に一軍初登板を果たして2/3イニングを無失点としていましたが、実績の無い選手にチャンスを与え続けるほど余裕がある状況ではなかったのです。

 巨人の原辰徳監督はその投手に《おまえは近い将来、巨人を引っ張っていく投手だ。だが、今じゃない》と告げました。

 翌年、その投手は一軍で28試合に登板し、チームのリーグ2連覇に貢献します。リリーフ登板の翌日にプロ初完投を記録する輝かしい場面もありました。シーズン後には背番号が17に変更されています。かつて完全試合を達成した藤本や槙原と同じ番号です。

 原監督が彼に語った《今じゃない》という言葉。ぼくはその言葉にバスケ漫画『SLAM DUNK』の名場面を思い浮かべます。名門・山王工業との試合中に負傷してしまう主人公の桜木花道。オヤジこと安西監督は桜木の将来を考え起用を躊躇しますが、桜木本人は痛みの中で目の前の勝利を渇望します。

《オヤジの栄光時代はいつだよ…全日本のときか?オレは……》

 安西監督、桜木がバスケを始めるきっかけとなった晴子、そしてするべきことを持たず日々を持て余していた不良時代の仲間たちが見つめる中、桜木は宣言します。

《オレは今なんだよ!!》

 未来への視線を眩ませてしまうほどに輝く《今》の存在。それは単なる「現在」とは異なった意味を持ちます。

 佐々木朗希という投手には、これからさらなる栄光を手にする可能性があります。しかし、完全試合を達成した瞬間の強烈なきらめきは、ひとつの《今》を迎えたと言っても良いはずです。

 では、原監督に《今じゃない》と言われた彼はどうだったか。甲子園に出場できず、ドラフト7位と高くはない評価から這い上がり、93という大きな背番号を立派な歴史を持つ17に変えてみせたその投手は、人々の心を捉えて離さない《今》に到達できたのか。

 球速160キロの圧倒的なボールで完全試合を果たした怪物の存在に、どうしても闘志をむき出しに荒々しく打者と戦っていた東野峻を対比させたくなってしまうのです。




 背番号を17に変更して最初のシーズンとなった平成21年に、東野は開幕ローテーション入りを勝ち取りました。制球に課題を抱え、テンポの悪い投球で原監督から《砂遊びは卒業しなきゃいけない》と苦言を呈されることもありましたが、年間を通じて一軍で投げ続け、規定投球回にも到達。8勝8敗、防御率3.17という成績を残し、チームを引っ張るとは言わずとも高卒5年目の若手として立派にシーズンを駆け抜けました。

 続く平成22年は槙原が完全試合を達成してから16年が経過したシーズンでした。槙原と同じ背番号17を背負う東野が、槙原と同じNPB16年振りの完全試合を達成するのではないかーースポーツ新聞のそんな記事を読んだ記憶があります。ネットで検索してもその記事は見つけられなかったのですが、そういうヨイショをするのは十中八九報知新聞でしょう。まだ比較的純粋だった当時のぼくは記事の内容を半ば本気で信じました。投球に安定感が無く明らかに未完成だった東野峻は、未完成であるが故に大きな期待を抱かせる投手でした。いつか、最高で完全な《今》に到達するのではないかという期待。

 結果的にこのシーズンで東野の完全試合は果たされませんでしたが、前半戦だけで11勝を挙げオールスターにも選出されました。シーズン後半は失速して通年では13勝止まりでしたが、キャリア最高の成績をマークしています。この活躍もあり、翌年は内海哲也を差し置いて開幕投手に指名されました。巨人を引っ張る使命を背負う立場になり、東野峻はかつて原監督が言った《近い将来》を《今》にしようとしていたのです。




 東日本大震災で開幕が遅れた平成23年。球団史上初めて地方球場で迎えた開幕戦に東野は先発し、7回途中2失点で勝利投手となりました。

 しかし、その後は勝ち星に恵まれず苦しいシーズンとなります。6月終了時点で2勝7敗と大きく負け越し、一時は抑えに転向しました。後半戦から先発に復帰し、夏場には3連勝を記録していますが、最終的な成績は8勝11敗2セーブ、防御率3.47に終わりました。

《昔は、「打てるもんなら打ってみろ!」って自信を持ってボールを投げていた。だけど開幕を任された年、相手チームのエースとばかり当たって2ヶ月くらい勝ち星が付かなかったんです。3点取られたら勝てないという状態が続いて精神的につらかった。そうなると今度はいいところにボールを投げなきゃいけないと考え過ぎるようになってしまったんです。僕はコントロールよりも勢いで行くタイプなのに》

 後に東野本人はそう振り返りました。開幕投手を務めるということは、他球団の開幕を任せられるような、エースと投げ合い続けるということです。しかもこの年から導入された「統一球」は反発係数が低く、エース級の投手ならほとんど失点しなくなるような代物でした。開幕投手を任せられてもまだ未完成なエースだった東野にとっては不運な状況です。しかし、それで勝てなくなると言うなら、真の意味で《今》を迎えられていないのです。

 平成24年のシーズン。巨人は杉内俊哉やデニス・ホールトンといった実績ある先発投手を補強し、若手では宮國椋丞が台頭してきました。もちろん内海や澤村拓一などの既存戦力も健在です。前年に開幕投手を務めた東野は弾き出され、わずか1試合の登板に終わってしまいました。その年のオフ、彼を待っていたのはオリックスへのトレードでした。

 移籍して以降の東野は3シーズンで1勝しか挙げられず、最後はトライアウトを経て加入したDeNAで引退しました。結局《今》は訪れなかったような、そんなプロ野球生活に思えます。もちろん槙原以来の完全試合などという荒唐無稽な期待は果たされませんでした。巨人で背番号17を背負った彼が槙原と重なった瞬間と言えば、平成23年5月3日の試合で、槙原以来26年振りに阪神のクリーンナップから三者連続ホームランを被弾した時くらいです。




 プロ入り3年目にして早くも完全な《今》を迎えた佐々木朗希は、端的に言って東野峻とはモノが違いました。これはもはや東野に不足があったというより、プロ野球の歴史を通しても佐々木が別格であることに他なりません。

 けれども、佐々木にも《今じゃない》と告げられた瞬間がありました。例えば高校3年夏の岩手県大会決勝。大船渡高校のエースとして甲子園まであと1勝に迫っていた佐々木ですが、故障を防ごうとする監督の意図もあり、決勝戦のマウンドに上がることはありませんでした。この将来を見据えた温存策は世間で大きな議論の的となりました。さらに、その後に入団したロッテでも、ルーキーイヤーは吉井理人投手コーチの元で身体作りに終始し、二軍ですら登板していません。

 雌伏の期間が佐々木に何を与え、それが彼の野球人生にどう影響し、そして佐々木本人が何を感じていたのか。正確に観測することは不可能です。温存されていてもされていなくても、彼は完全試合を達成していたかもしれない。そういう仮定の話は証明できません。とはいえ、過去に類を見ない過程を辿ってきた彼が、球史の特異な存在となった事実は見逃すべきではありません。佐々木は胸中がどうあれ《今じゃない》という指摘を受け入れることができたし、それが《今》の実現に寄与したのだと主張することには説得力があります。

 一方で東野峻は原監督に《今じゃない》と告げられ、ある程度の期間を経て結果を残しました。しかし、本当にその言葉を受け入れていたわけではないように思えます。

《何くそ、もっとうまくなってやる》

 悔しさの中で彼はそう誓いました。近い将来を見据えているようにも捉えられますが、自分の栄光が「現在」という意味での《今》だと信じるからこその《何くそ》とも言えます。少なくとも、東野には佐々木の160キロのストレートのような、栄光時代が未来に訪れると担保してくれるものがありません。元来の期待が高くなく、早期に結果を残さなければいけない立場である以上は、《オレは今なんだよ》と信じるしかないのです。

 高校野球の結末も東野と佐々木では対照的でした。東野は茨城大会の4回戦で名門の常総学院に直球勝負を挑み続け、0-9というスコアで壮絶に散っています。自分の《今》を信じ、その瞬間に燃え尽きようとする姿を象徴したような結果です。

 《今じゃない》という事実を受け入れた佐々木は完全な瞬間を迎え、《オレは今》と信じ続けた東野には訪れることがありませんでした。共に未完成であるが故に見る者へ期待を抱かせたふたりの背番号17の間には、そのコントラストが浮かび上がってきます。




 それでも、東野峻が《今》を言葉通り「現在」だと信じたことを否定はできません。彼が未来のため現在の燃焼を先送りにしたとして、完全な瞬間が訪れる保証は無いのです。何よりプロ入り前から日本の宝と評されてきた佐々木と異なり、東野には、あるいはその他の多くの人間には、猶予がありません。

 巨人への入団直後から故障に苦しみ、2年間まともに投げられなかった東野には残酷な二択が突きつけられました。それは、一軍の試合に出場できない育成選手になるか、あるいはサイドスローに転向するかというもの。東野は後者を選びました。一軍で試合に出られなかったら《今》なんて訪れるはずもありません。

 その決断をした直後に肩を故障してしまいます。もう後がなくなりました。壊れてでも投げて、燃え尽きなければ悔いが残ります。

《野球生活が最後になってもいいので、上から投げさせてください。ダメならやめます》

 自分を曲げたサイドスローでは終われない。オーバースローに戻した東野は、3年目にようやく一軍登板を果たします。

 野球にも人生にも、本来は《完全》なんてありえません。佐々木のような存在が異端なのです。いつか訪れる、逆にまだ訪れていない瞬間のために現在を犠牲にできる冷静さが必要な場面はあります。しかし、東野のように《オレは今なんだよ》と信じて燃え尽きようとする精神が人間を支えうることも確かです。多くの人がそうやって支えられるからこそ、矢吹丈や桜木花道や茂野吾郎は人々を惹きつけます。甲子園で行われる高校野球の全国大会が国民的行事となり、大船渡高校の佐々木を温存した采配が賛否両論を巻き起こした理由もそこにあります。

 東野峻が《今》を迎えられなかった理由は《今じゃない》ことを受け入れられなかったからではないのでしょう。そもそも、槙原の完全試合から16年後に背番号17を背負っていたからといって、それを果たさなければならないわけではないし、ドラフト7位から開幕投手に上り詰め、通算32勝したことで彼なりに《今》を迎えたと言うことはできます。

 そのうえで開幕投手を務めた後に本当の意味で巨人を引っ張る投手になれなかった理由を求めるなら、暫定エースとして飛ばない統一球の環境下で他球団の好投手と戦わなければならなかった不運があり、その結果《オレは今なんだよ》と言えなくなったことでしょう。

《不安から逃れたくて浴びるように酒を飲むこともあった。家に帰ると、巨人時代の一番良かった頃のビデオを見返しては、「これが本当の俺なんだ」と、現実逃避する。その繰り返しでした》

 わずか1勝に終わり、移籍2年目には一軍出場できず戦力外通告を受けたオリックス時代。《今》を信じてコントロールより勢いで勝負していたはずの東野は、彼を彼自身として支える芯を失っていました。

 前述の通りトライアウトを経てDeNAへ入団しますが、そこでも結果を残すことはできませんでした。引退後は打撃投手へ転向したものの、右肩の腱板を断裂してマウンドへ完全な別れを告げることとなります。パーフェクトゲームのような眩さを持たない、悲劇的な結末です。

 しかしそれは、多くの人が望んでやまない燃え尽きる瞬間でもあります。《完全》が存在しない世界で、方向性はどうあれ誰もがそれを欲している。佐々木と東野。栄光に満ちた背番号17を挟むコントラスト。鮮烈な明暗に思いを馳せながら、人々はどちらにもなれない凡庸を生きています。

 佐々木朗希のように輝くなんてできっこない。東野峻のように完膚なきまでに燃焼する覚悟もない。未来を考えたら絶望しかありません。であるならば、ひたすら《今》を見つめて、どれほど虚構に満ちた欺瞞であっても《オレは今なんだよ!!》と主張し続けるしかないのかもしれません。そうやって時に失敗するとしても、世界はそれなりに寛容なはずです。




 そんな風に考えて、どこか寂しさを感じるような気もします。もしかすると《だが、今じゃない》と指摘してくれる存在に、何がしかの思いがあるのでしょうか。

 オリックスから戦力外通告を受けた東野は、トライアウトを受験する前に一度引退を決意しています。そこに待ったをかけたのは、巨人時代に先発ローテーションの軸として苦楽を共にした内海哲也でした。

《お前は、俺を抑えて開幕投手になったエースなんだ。トライアウトも受けずに逃げ出すのは許さん》

 東野峻が燃え尽きる瞬間は今じゃない。もちろん栄光を手にした巨人時代の過去でもない。悲劇的ながら美しい最後は、彼ひとりでは到達できませんでした。

 不完全な人々が互いに欠落を補完しあう。この世界でそれ以上に《完全》へ近づく方法はない、ということでしょう。





【参考】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?