ワンダーエッグ・プライオリティ 二次創作「上っ面、薄っぺら」 その1

1
 人は死んだらどうなるのだろう。誰もが一度は考えた経験を持っているに違いない。天国や地獄といったこの世ならざる場所へ送られるのか、姿の見えない幽霊となってこの世を彷徨うのか、あるいは深い眠りのような無が永遠に続くのか。
 幼い頃の西城(さいじょう)くるみもこのことを考え、死んで何も無くなるのは嫌だなと思っていた。それは恐らく、人間が死んで無になるのであれば、生きることの意味も失うような気がしていたからだろう。中学生になったくるみは当時を思い出し、自分にも可愛らしいところがあったのだなと郷愁に似た感情を抱く。彼女は死の先に広がるのがひたすらに無であってほしいと願っていた。天国も地獄も幽霊もいらない。意識や感覚が全て隔絶された状態だけが死であってほしかった。
 年月で考え方が変わったわけではない。変わったのは価値観だった。自分が生きることに意味など存在しなくてよいと、そう思うようになったのだ。
 ある晴れた日のことだった。目覚めたくるみは身体がいつもより軽いように感じた。長いこと胸に抱いていた鉛のような冷たい重さが和らいでいる。世界が今日という一日の来訪とくるみの覚醒を歓迎しているかのようだった。
 その日、西城くるみは自殺した。



2
 教室を見渡してもカーストという言葉がヒンドゥー教における身分制度を指すことや、スクールカーストという言葉が他国で通じない和製英語であることを知っている者がそう多くいるとは思えないが、ここにいる者の大半がスクールカーストの概念を知っていて、その上位に位置することに価値を見出している。学校社会って馬鹿みたいとくるみは思う。学校を卒業した後もそう変わらないのかもしれないけど。
 くるみはクラスのカーストで言えば頂点に位置していた。顔立ちが良く、制服を着崩し、校則で禁止されているアクセサリーを身につけ、髪を茶色に染めている。そんなことが重なって彼女を小さな教室のカリスマにした。いつも周囲に人が集まっている。そして色々なことを話す。遊びに行く予定。教師や親への不満。隣のクラスのイケメン。SNSでバズっている動画。カースト最下位のブス。どの会話も盛り上がる。あるあるー。わかるー。かわいいー。それだけで女子中学生の会話は盛り上がりを演出できる。くるみはひどく空虚だと思った。
「上っ面。薄っぺら。私の人生、このまま終わっていくのかな」
 立入禁止になっている校舎の屋上でひとりつぶやく。教師たちは屋上へ続く扉の鍵が壊れていることを知っているのに、何も対策を講じていない。始めの頃はくるみの行動を注意する者もいたが、今では授業をサボって屋上にいようが何も言われない。他の不良生徒が多いせいもある。もはや学校の自治機能では処理しきれなくなっていた。
 曇り空の屋上を風が吹き抜けていく。左耳のイヤリングが揺れた。
 くるみは屋上でひとり過ごす時間を気に入っていた。煩わしい人間関係から解放された気分になれる。ドラマの恋愛みたく尊い輝きを放つ関係も存在するのかもしれないけど、この世界の多くの関係は遠く及ばないものばかりだ。だったらひとりの方が気楽に生きていける。
 いつからこうなってしまったのだろうと考える。幼い頃は周囲にいる同年代の人々を純粋に友達だと思っていたはずだ。一緒にいて盛り上がれば楽しい。それを疑うことなんて無かった。いつからか変わった。それとも気づいてしまったと言うべきなのか。友人関係とは同調圧力が書き下ろした台本を演じるロールプレイングでしかないことに。
「どうしてみんな気にならないんだろ」
 くるみの声が空に溶けていく。誰にも聞かれず、やがて自分すらも忘れていく言葉に余計な虚脱を覚えた。



3
 目を覚ましたくるみが初めに感じたのは制服は横になるには向かない服だということだった。次に横たわる自分の周囲に卵の殻にくっついているような白く薄い膜が広がっていることに疑問を覚えた。最後に自分が死んだことを実感して奇妙な気分を味わった。とりあえず、死がもたらす無は完全ではないらしい。
 手を伸ばして周囲を探る。白い膜越しの床にも制服のジャケットにもいつも通りに結われたサイドポニーの髪にも感触があった。今の自分は生前にイメージしていた幽霊とも異なっているらしい。さらに言えば、胸に手を当てるとくるみの心臓は正常に脈打っていた。心臓が動いているのであれば、幽霊どころか生きていると言った方が正しいのではないだろうか。しかし、くるみは自らの死を確信している。それは炭酸飲料が入ったペットボトルを振ってから開ければ中身が吹き出すのと同様に、くるみにとって揺るがない事実だった。
 ふと夜更かしした際にテレビに映っていたアニメ番組を思い出す。現実世界で死んだ人間が異世界に転生する話だった。生きているが確実に死を経験しているという点では近いのかもしれない。
 寝返りを打って仰向けになる。天井が広がる視界の両端に机の天板と黒板が見えた。そして天板から身を乗り出してくるみを見下ろす少女。くるみが彼女を見つめながらゆっくり身体を起こすと、少女はビクッと震えて顔を引っ込めた。
 立ち上がって少女が引っ込んだ方を向く。ボブカットと大きなカチューシャが印象的な少女の背後に多くの机と椅子が並べられているのが見えた。くるみと少女の間には教卓があり、背後には黒板がある。異世界と呼ぶにはあまりに平凡な教室そのものだった。
 小さな体躯のカチューシャ少女を見つめると、すぐさま視線を外された。見るからに気弱な性格だった。
「あなたは誰?」
 くるみの問いかけに少女は全身を震わせ、「えっと」とか「あの」とかか細い声でつぶやくが、肝心の答えは発せられなかった。そんなに自分の顔が怖いのかとくるみは悲しみに似た感情を覚える。茶髪の人間を見るだけで怯える人種だと思うべきだろうか。
「ごめん。人に訊く前に名乗るべきよね。私、西城くるみ。あなたは?」
「かっ……唐橋藍(からはし ラン)……です」
「ランちゃんね。よろしく」
「ょ……ろしくお願い、します……」
 さて、とくるみは考える。自分は確実に死んでいるはずだ。だが、再び肉体と意識を得て何故か教室に立っている。この状況はどういうことか。目の前にいるランと名乗った少女は何か知っているだろうか。まずは彼女が持つ情報を確認しなければならない。
「いきなりだけど――」
 その時、教室内に音楽が響いた。外にあるスピーカーか何かが鳴らしているらしい。改めてランを見ると、くるみの方を向いて目を見開き、寒くもないのに身体を小刻みに震わせている。だからそんなに私の顔が怖いのかと不満のひとつでも述べようとして、彼女の目に映るのがくるみではなくその背後の黒板であることに気づく。振り向くと、黒板が赤、ピンク、緑と鮮やかに、しかし禍々しく染められていた。
「き、来た」
 ランがつぶやく。
「何が?」
「いいから!早く逃げなきゃ!」
 ヒステリックに叫び終えるより早く、ランは出口へ駆け出していた。くるみが呆然としているとまたランが叫ぶ。
「くるみちゃん!早く!」
「なんなのよいきなり……」
 仕方なしにくるみも走る。廊下に出ると、不気味で品の無い笑い声が聞こえてきた。思わず声の方に顔を向けたくるみは、視界に飛び込んできた光景に顔をしかめた。
「何あれ」
 彼女が目にしたのは、不規則に飛び跳ねながら向かってくる、くるみの膝下くらいの背丈をした小人の大群だった。小人たちは茶色の革靴を履いて黒いシャツと短パンを身にまとい、真っ赤なネクタイを締めている。その出で立ちは良家のお坊ちゃまのようにも見える。しかし、大自然の中で暮らす部族を想起させる赤く奇怪な仮面に覆われた顔と、人を馬鹿にしたような笑い声、そして狂ったような跳ね方が生理的な抵抗を感じさせた。
「ミテミヌフリ!急いで!」
 ランは既に小人たちから逃げ始めていた。くるみも後を追う。見て見ぬ振り?走りながら首を傾げた。訊きたかったのはあの小人たちが何者かであって、するべきことではなかったのだけど。しかし見ない振りをするのは適切な選択とも思えた。彼らはただ向かってくるだけでなく、ペンキをぶちまけるみたいに進行方向を染め上げている。赤、ピンク、緑、ちょうど先ほどの黒板と同じ具合だ。あれに巻き込まれるべきでないことは直感的に理解できる。
「というか、あいつらナイフ持ってない?」
「それであなたを殺すつもりなんだよ!」
「はあ?」
 くるみに小人の恨みを買った覚えはない。どうして自殺した後で命を狙われなければならないのだ。
「意味わかんない」
「私もミテミヌフリのことは知らない!」
 その時にくるみは初めてミテミヌフリが小人たちを指す固有名詞であることを悟る。言われてみると彼らの笑い声は生前のくるみが知るものに通じているように思えた。人が傷つく光景を傍観して無関係を装う残酷な笑顔。
 ふたりは廊下を走り続ける。教室でオドオドしていたランは運動神経が良いように見えなかったが、走るのは意外に速かった。くるみを先導しながら度々振り返り、ミテミヌフリが迫り来る背後を確認している。
「どこまで逃げれば……」
「危ない!」
 振り返ったランが叫ぶ。えっ。声を漏らし後ろを見たくるみに向かって“何か”が飛んでくる。くるみは咄嗟に身構えて顔を伏せた。
 グシャッと生々しい音が廊下に沈んだ。

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