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『ワンダーエッグ・プライオリティ』という卒業アニメと対峙する ワンエグ特別編を観た

 『ワンダーエッグ・プライオリティ』の特別編が放送されて一週間以上が経ち、ずっとnoteに諸々書きたいと思っていたのですが、全く書けていませんでした。書きたいことが浮かんではすぐに消えていく。シュワシュワ生まれて シュワシュワ弾ける Life is サイダー。

 しかしいつまでも書きたいという気持ちだけ抱えて悶々としているのは気持ちのいい状態ではないので、あまり細かいことは気にせずぶちまけていこうかなと思います。



 特別編は一時間枠で放送されましたが、前半は本編の振り返りで、実質的には普通のアニメ一話分の尺のみでストーリーが展開されました。冷静に振り返ると本編は全12話の予定を11話分(+総集編)しか放送できず、最後も当日納品だったわけで、そんな制作環境からたった3ヶ月で一時間枠の新作を作れるはずがありません。むしろその短期間で総集編と新作部分を完成させられたことに制作スタッフの決死の奮闘が伺えます。

 結局のところ、特別編は本編の12話となるはずだった内容をそのまま描いたものと見て良いでしょう。前半部分は3ヶ月のインターバルを考慮した復習と本編を見ていなかった人向けの導入と考えるのが自然です。

 そしてこの特別編は1クールアニメの最終回として考えると珍しいものでした。端的に言って置きに来なかった。

 アニメは尺の決まったコンテンツであり、1話あたりであれストーリー全体であれ、決められた時間の中で描かなければなりません。だから最終回は、どんな作品でも多かれ少なかれ決まった枠にはめ込むための置きに来た内容となります。それまで以上にシリアスな展開になったり、気合いの入ったアクションシーンを挿入したり、内容はともかく雰囲気だけはそれっぽいエピローグで締めくくったり。最終回らしさを演出して余韻を生むためのテンプレートが活用されます。

 しかしワンエグはそうではありませんでした。本編の終盤に登場してラスボスになるかと思われたフリルとは戦わないし、それどころか本編で大きな魅力のひとつだったアクションシーンは皆無です。アイが「復活」を宣言して終わるラストは最終回テンプレートのひとつ「俺たちの戦いはこれからだエンド」のようにも思えますが、「俺たたエンド」で無理に締めるくらいならねいる、リカ、桃恵についてももっと前向きに描けば良かったのです。それをしなかったことには明確な意図があります。この作品には安易な余韻よりも優先して描こうとしたものがある。



 ワンエグが描こうとしたものを捉える上で特にわかりやすいのは桃恵だったと思います。特別編の彼女はアイやリカとカラオケを楽しんだ帰りにふたりより先に電車を降り、そのシーンを最後に物語から退場します。電車の中で寝ていたアイと別れの言葉を交わすことはありませんでした。桃恵の降車後に閉まるドアがアイとリカに重なる演出と、去っていく電車を見送る桃恵の表情は、「離別」という言葉をそのまま映像にしたような切なさに満ちた表現でした。

 ここで本編も含めて桃恵という人物について振り返ります。彼女は男性的な容姿から女子として見られないことにコンプレックスを感じつつも、自身を女子として好きだと言ったハルカを拒絶してしまった過去があり、自分のあり方を確定させられずにいました。

 5話のねいるとの会話が象徴的です。

「満更モテることが嫌いじゃないんでしょ。女子相手でも」
「……それはインスタとかでも女子のフォロワーは大事っていうか」
「中途半端ね」

 桃恵は周囲のあらゆる期待に応えようとするあまり自分の意志を通せず、ねいるが言う通り「中途半端」な生き方をしていました。

 そして彼女は特別編でアイたちと「離別」します。それはエロスの戦士になろうとするアイや万年の復讐を果たそうとするリカとは異なり、桃恵の戦わないという意志が明確だったからです。

 直接的なきっかけはハイフンにパニックを惨殺され、死の恐怖を知ったことにありますが、実はその直前に救った薫の存在が大きかったのではないかと思います。

 10話から桃恵と薫の会話を抜粋しましょう。

「次に生まれ変わったら今度は僕が君を守ってあげる」
「勘違いしないで。女子の誰もが守られたいって思ってるわけじゃないよ」
「そっか。ごめん」
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「君はどうなの?」
「私に選択肢なんてない」
「そんなことない。君は素敵な女の子だよ」

 桃恵は薫との交流により「男子から女子として愛される」という憧れを実現させ、自分自身に「選択肢」があることを知ったのです。

 それまでの桃恵であれば、彼女自身の意志を通せずリカの呼びかけに応じて再びエッグの世界に身を投じたことでしょう。しかし彼女は中途半端な自分を捨てて選択した。恐怖という負の感情に向き合い、アイたちとの友情の中で葛藤し、そして決断を降した。以前とは変わってしまったかもしれないけどハルカや他の友達がいて、いつか現れるかもしれない薫のように自分を愛する男性を待つ、平和な人生を選びとった。

 これはまさに桃恵が「私のプライオリティ」を打ち出した瞬間でした。中途半端だった14歳の少女は、プライオリティを得て自分の存在を確定させていきます。この瞬間を描くことこそ『ワンダーエッグ・プライオリティ』という物語が創られた根本であり、誰もが経験する未確定が確定へ変化する瞬間を心に刻みうる形で可視化することが、安易な余韻を超えた物語のプライオリティなのです。



 桃恵について振り返るとわかりますが、彼女の物語はアイたちのそれとは独立しています。桃恵がプライオリティを見出す過程においてアイたちの存在は重要でしたが、過程を経て桃恵が向かう先で彼女たちは必要とされていません。これはアイ、ねいる、リカのそれぞれにとっても同様です。

 ワンエグは少女たちがプライオリティを掴み取る物語です。プライオリティはその人自身の価値観によるものであり、他の誰のものでもありません。だから深夜アニメのお約束通りに4人の少女を描いていても、彼女たちの物語はそれぞれ別の方向を向いています。4人が描かれながらも「出会わない」オープニング映像が象徴的です。

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 この意味でワンエグは真っ当な「群像劇」でした。昔話の桃恵……ならぬ『桃太郎』で桃太郎、犬、猿、雉がそれぞれ鬼を倒すという同じ目的だけを見据えていたように、複数のキャラクターを重ねてひとつの方向へ向かっていく物語は多いですが、ワンエグはそれをしません。個々が持っていて、他の誰かと混じり合わない「誰も知らない物語」を大切に描き出しました。

 それは現実に真摯であったということでもあります。現実で個々の思惑や価値観を持つ人々が同じ方向を見据えることはそうありません。大抵は同じ方向を見ているような気がするだけか、人々がほんの一瞬たまたま重なったに過ぎないかです。その切ない現実が誤魔化されず誠実に描かれています。

 未確定な子どもたちが友と出会い、苦悩や葛藤の果てに自らを確定させる何かを見つけ、そして永遠とも思えた友との時間は儚く散っていく。ワンエグが描いた物語はそういったものでした。オープニングテーマに「巣立ちの歌」を採用したのは、初めからそれを描く姿勢が明確だったからでしょう。現実に嘘をつかないが故のビターさを纏った「卒業アニメ」としてワンエグは成立しています。



 成立。すなわち『ワンダーエッグ・プライオリティ』という作品は特別編を以て完成し、幕を閉じました。一見して前向きでない部分が多く、最終回の余韻は排され、アイの戦いやその先にあるはずのねいるとの再会は描かれません。だからこの特別編を消化不良と見る向きもあるでしょうが、実際には描こうとしていたものをこれ以上無いほど余さず、ハイクオリティな映像と共に描ききれた作品でした。

 アニメを初めとした多くの物語は娯楽として提供されています。娯楽としての需要があり、それに応える形で供給され、消費者はいかに需要を満たすかという視点で物語を「鑑賞」します。鑑賞されるための嗜好品として見たとき、ワンエグは多数派の需要に応えたとは言い難く、その意味での傑作ではなかったかもしれません。

 しかし物語の作り手と受け手の関係性は鑑賞する側とされる側だけに留まりません。むしろ「鑑賞」を超えて受け手と「対峙」しうる物語を描くことが野島伸司氏の脚本家としての矜恃だったはずです。

 人々がそれぞれの物語とプライオリティを抱くが故に本質的には誰とも混じり合えない世界で、その現実を否定せず対峙する。それが世界を変えうる唯一の手段で、同時にその世界でも混じり合いたいと思える、かけがえなく尊い本当の愛を見つけうる姿勢です。いつまでも心に刻みつけられる大切な物語は対峙の果てにしか出会えません。「思い出補正」という言葉もありますが、子どもの頃に観た物語をいつまでも忘れられず至高のものと感じるようなことがあります。それは価値観に即しての鑑賞ができない未確定な状態では、物語と対峙せざるをえないからという理由もあるでしょう。

 ワンエグは多分にファンタジーを含んだ物語でしたが、それはファンタジーの中でも揺るがないリアルの存在を浮かび上がらせる指示薬のようなものでした。リアルを大切に正面から描く物語は娯楽として鑑賞するには向きませんが、対峙することで自分が生きる現実のどこかと重なります。その重なりが、過去に経験してきたプライオリティを得て自分を確定させた瞬間を、あるいはこれから迎えるかもしれない新たな確定の瞬間を、少し肯定して良いものだと信じさせてくれるのです。



 というわけで、ワンエグ特別編を見て書きたかったことはある程度弾けさせられたかなと思います。まあまだ不完全なんですけど。今回はキャラクターでは桃恵についてしか書いていないようなものですが、アイ、ねいる、リカにもそれぞれ「私のプライオリティ」があるわけで、それを掘り下げた記事をまたの機会に書くつもりです。近いうちに……。

 とにかく今回書きたかったのは、ワンエグという「対峙」されるべく描かれた作品を、「鑑賞」で留めず「対峙」してくれ頼むということです。その先に人々が生きざるをえない現実に対する受容や充足があります。言葉で説明できるならアニメにしない、と言ったらここまで書いてきたこと自体の否定ですが、しかしアニメでしか実感しようのないことなので是非とも「対峙」する意識で観て、いやぶつかってほしい。心臓が動くとか、呼吸しているとか、そういうことと違う次元での生きることに指先を触れられると思います。

「今は酔うべき時です」
「“時”に虐げられる奴隷になりたくないなら」
「絶え間なくお酔いなさい!」
「酒でも詩でも道徳でも」
「何でもお好きなもので」

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