〈ファンタジー小説〉空のあたり4
4.研修
動き出した車輪は、上空に向かって回り出した。やがて自転車は宙に浮き、空中を、風を切って走った。自転車に乗ったのは久しぶりだった。
しばらくこいでいると、若者に少しずつ近づいてくるのが分かった。ぼくは必死にこいでいたけれど、若者はゆっくりこいでいたからだった。
そのうちに、あたりが暗くなってきた。時間の感覚がなくなるまで、ぼくは、走りつづけた。
さすがに足が痛くなり、しびれを切らして、ぼくは聞いた。
「あのう、いつになったら着くんでしょうか」
いきなり、若者は自転車にブレーキをかけた。
「おっと!」
つられてかけた急ブレーキのせいで、自転車ごと一回転して、ぼくの体は、宙に放り出された。
気が付くとぼくは、真っ暗な中に、浮いていた。周りには、雪の結晶みたいに、ゆっくりと星が降っていた。
「きれー」
落ちていく光の軌跡が一本の線になり、それが横に広がって、小さなスクリーンのようなものが現れた。その中に、何かがうごめいていた。
もっとよく見ようと、スクリーンの中をのぞくと、その中には、緑の草地が広がっていた。
「そこに入るの?」と、若者が聞いた。
「入る?」
「今、ここにいる時間は、とても長い。君が考えているより」
「どういうことですか?」
「自転車から降りてから、今までの間に、何年経ったと思う?」
「何年? 数分でしょう?」
降りたというより、落ちたんだけど。と、ぼくは思った。
「いや。もう数年は経っている。きみが何も感じていなかったから、数分しか経っていないと感じているだけで」
もしそうだとしても、もういいや、と、ぼくは思った。時間なんて、いつも思い通りにならないんだから。
「だけど、今ぼくは、目が見えますよ。何も感じてないわけじゃない」
「それは、時が経ったから。ひまになったから」
「ひま?」
「そう。ひまになったから、やることを探している。そしてわずかながら、できることがある」
「ぼくにもできることですか」
その時、若者が急にぼくの背後に回って、背中をぐんっと押した。ぼくは、ひゅうとスクリーンの中に落ちて行った。
ばさりと落ちたのは、草むらの中だった。とても背の高い、草の中だ。
ぼくは草の匂いをかいだ。なんだか懐かしい。草の香り自体も懐かしいのだけれど、匂いを感じること自体が、懐かしいような気がした。鼻の中から吸い込まれた空気が、匂いを連れて、脳に駆け上がった。ぼくは、何回も周りの空気を吸った。吸うことばかりに集中したせいで、吐くのを忘れて苦しくなった。
ふぅと息を吐いた時、足元に、黒い何かが落ちているのを見つけた。
それは、小さな手袋だった。片方だけの手袋は、よく見るけれど、両方とも落ちている。どうして両方同時に落としたんだろう。あえて、そこに置いたようにも思える。けれど、そんなことをする意味が、あるのだろうか。
ぼくがそれを拾うと、「あ、ちょっとちょっと」と、横で声がした。
驚いて振り向くと、「それ、今、私がずらしたんですから」と、少し怒った声が聞こえた。
「すみません」と言って、ぼくはその手袋を、さっき置いてあった場所に戻した。すると、草むらから、ぬっと手が出てきて、「そこじゃないでしょう。もっと、こっちだったでしょう」と言いながら、手袋を三センチ右にずらした。
「あ、すみません」
その手の主が、草むらから出てきた。眼鏡をかけた、背の高い人だった。
「ところで、この手袋、初めはどこにあったんですか?」
「そこです」と、その人が指さした所は、今手袋が置かれている場所から、十一センチほど離れた所だった。こんなにちょびっとだけ動かして、意味があるのだろうか。
「あの、なんでこの手袋を動かしたんですか?」
「それは、落とした人に、見つかりやすいようにですよ」
「それなら、もっと動かした方が良いんじゃないですか? 見通しの良い所とか」
「それはだめです」
「どうしてですか?」
「気づかれては、ならないからです。私たちが動かしたということが」
「でも、もうちょっと、見やすい所があるはずですよ。探してみましょう」
そう言って、ぼくは草むらの中を歩き始めた。後から、その人もついてくる。
草をかき分け、ぼくは歩いた。草が頬をかすって、ちょっと血が出た。
「いてっ」
ちょっとした傷だったのに、眼鏡の人がギョッとして、ぼくの顔をのぞき込んだので、ぼくはそれに対して驚いてしまった。
「大丈夫です」と言って、ぼくはまた歩き始めた。
さらさらと、風に揺られて草が鳴る音が聞こえる。鳥の声は、聞こえない。
代わりに、「わあ」という声がして、後ろの人が、倒れてきた。押されて、ぼくも前に倒れた。
「いてて」
手をついた所は、草の生えていない、茶色い地面だった。
「草むらを出たみたいです」と言いながら後ろを振り向くと、その人は、また、ぼくをのぞき込んでいた。そして、ぼくの赤くなった手を、目が飛び出そうなくらい、じっと見ている。
「ちょっと手をすりむいただけですよ」
その視線をそらせるように、ぼくは、わざとその手で、地面を指さした。
「見てください。ここ」
地面は道になっていて、ずっと向こうまで続いていた。
「ここに置いておけば、落とした人も、いずれ気づくんじゃないですか」
「ここはさすがにだめですよ」
その人は、どうしても、うんと言わなかった。
「わかりました。でも、せめてこの道に少しだけ近づけるくらいなら、良いんじゃないですか」
そう言うと、その人もしぶしぶうなずいてくれた。
そしてぼくたちは、手袋を取りに戻ることにした。
ややしばらく歩くと、ぼくはその人に尋ねた。
「あの手袋、どのあたりにありましたっけ」
「この辺だと思ったんですけどね」
「なんか、ないですね」
嫌な予感がした。
「もしかして、ぼくたち、手袋を見失いましたかね」
「そのようですね」
あぁ。と、ぼくは思った。今やぼくたちは、「手袋をみつけてもらう人」から、「手袋を探す人」に、なり替わっていた。これでは手袋を落とした人と、なんら立場が変わらないではないか。
「どうしよう」
そう言って、ぼくは、立ち止まってしまった。
「ちょっと、休憩しましょう」
その人は言った。そして、その場に座り込んだ。
まだ手袋もみつかっていないのに、休んでいて良いのだろうか。けれど、この人は、ぼくより先にここに来ていたのだし、ぼくよりも、疲れているのかもしれない。そう思って、ぼくも、草むらの中に腰を下ろした。
さわさわさわと、風が吹いてくる。
「どこにいったんですかねえ」
「ほんとに」
その言葉を最後に、ぼくたちは、じっと話さなくなった。もう、話すことがなくなってしまったのと、もう、話さなくても良くなったからだった。
その時、ガサガサっと、遠くの方で音がした。ぼくたちは、顔を見合わせた。
「誰かいる」と、その人は低い声で言った。
ぼくたちはそうっと立ちあがり、そろそろと、音のする方へ歩いて行った。
そしていつしか、さっきと同じ茶色い道に出た。
ぼくは道の遠く先の方に、人影があるのを見つけた。その人の手には、あの黒い手袋が、履かれていた。
「あっ! あの手袋!」
ぼくは小さい声で叫んだ。
「みつかったんですね」
その人も、うれしそうだった。
結局、あの場所で良かったのだ。元の位置からたった十一センチだけしか動かさなかった、あの場所で。
「良かったですね。それにしても変だなぁ」と、ぼくは言った。
「なにがです?」
「なんだかサイズが合ってないみたいだ」
手袋は小さすぎて、その人の手首まで届いていなかった。
「きっと、ずっと昔に落としたんでしょう」と、その人は言った。
「そんな手袋、探しにくるかなぁ」
「とっても、大事なものだったんです」
確信があるように、その人は言った。
「じゃあ、帰りますか」と、言われたけれど、ぼくは、どうやって帰ったら良いのか、分からなかった。
「あの、すみません。ぼく、帰り方が分からないんですけど」
「とよぐのです」と、その人は言った。
「とよぐ?」
「そう。こうやって」
そうして、その人は目をつぶり、両手を合わせて頭の上に一旦あげ、その手を、水をかくように斜め下に下ろして、そのまましゃがんだ。そして、すうっと、立ち上がった。そのとたん、その人の体が宙に浮き、スィーッと空に昇って行った。
「ぼくもできるかなあ」
ぼくは同じポーズをやってみた。そうしたら、まるで体にかかっていた重力が、一旦全部なくなって、今度は上に移動したかのように、ぼくは頭の先から、上空にひっぱられて行った。
気が付くと、ぼくはまた、闇の中にいた。周りには、誰もいなかった。さっき、とよぎ方を教えてくれた人も、ここへぼくを連れてきてくれた若者も、誰もいないのだった。ぼくは一体、どうしたら良いのだろう。
周りには、相変わらず星の雪が降っている。星の雪は、キラキラと輝いていた。
その光をしばらく見ていると、今まで味わったことのない感情が、ぼくの中に沸き起こってきた。
それは、愛しくて、羨ましくて、心の奥底から手をのばしても、永遠に手が届かないような、それでいて、その昔、自分の中にもあったような、そんな感情だった。
その光と比べて、今のぼくは、とてもみじめだった。
「誰かいますか」
ぼくは声をあげた。
その声は、わんわんわんという響きになって、ちらばって消えていった。
ぼくの体はふわふわ浮いていたけれど、心はカチコチに緊張したままだった。ちょっとでも気を抜くと、永遠にこのままなのではないかという恐怖が、心の中にしのびこみ、あっというまに充満しそうで、おしこめるのが、大変だった。そうして、ぼくはまた、長い時を過ごした。
遠くから、誰かの鼻歌が聞こえてきた時、ぼくは、心底ほっとした。助かったと思いながら、ぼくはその鼻歌の主を探した。やがて暗闇の向こうから、紫色の自転車が見えた。ぼくは息をつめて、その人が近づいてくるのを待った。
その人は、ちぢれた髪の毛を、ふさふさ揺らしながら、鼻歌を歌い、自転車をこいでいた。
「あの、すみません」
声がちらばっていかないように、ぼくはお腹に力を込めた。思っていたより、それはちゃんと声になった。
「なんだい」
キュと音をたてて、その人は自転車を止めた。
「ぼく、迷ってしまって」
「どこから来たんだい?」
太い眉の下で、その人の目が、こちらを向いた。
「空のあたりからです」
「そう。そうなの」
「でも、帰り方が分からなくって」
「おれも分からないな。行ったことないから」
「そうですか」
ぼくは、少しがっかりした。
「じゃ」
そう言って、その人は、そのまま行ってしまいそうになった。
「あ、待ってください!」
また一人ぼっちになってしまうわけにはいかない。ぼくは、その人を引きとめる口実を探した。
「さっきの歌は、なんていう歌ですか?」
その質問は、思った以上の効果を発揮した。
「え、おれの楽器の音、聞こえるの?」
「が、楽器なんですか?」
「そうだよ。おれの楽器。ピートノスペーポーって言うんだけどね」
「どこにあるんですか?」
「ここだよ」
そう言って、その人は、自分の鼻の穴を指さした。
鼻歌と、どこが違うんだろう。と、ぼくは思ったけれど、せっかくの機嫌を損ねてはいけない。
「おれの楽器の音なんて、誰も聞いてくれないと思ってたよ!」
その人は、感激して、自転車から降りてきた。
「いや、聞いてくれないというより、聞こえないんだな。みんな」
「どうしてですか?」
「ここにいるみんなは、夢を見ずに寝ているようなものだからな。たまーに起きてはいるけど、そんなとぎれとぎれじゃ、音楽は聞こえないのさ」
「ふーん、そうなんですね。あなたは、どうして聞こえるんですか」
「知らんね」
そう言って、その人はまた、ピートノスペーポーを吹き出した。
「そうだ。聴きたい曲はないか? ん?」
いきなりそう言われて、ぼくは悩んだ。何が良いだろう。
「あ、あれはできますか?」
ぼくは、子どもの頃によく聞いたメロディを、くちずさんでみた。
「ほう。初めて聴いたが、今、覚えたぞ」
ぼくはあまりうまく歌えなかったのに、その人が吹いてくれたメロディは、ぼくが頭の中で流したメロディそのものだった。だから懐かしくて、ちょっと涙が出た。
その時だった。突然、ジリリリリリリリと、大きな音がした。
さっきまでのメロディの余韻が、あっというまに消えていった。
その音は、一つの光の中から聞こえてくる。
「おい、呼んでるぞ」と、その人は言った。
「え、ぼくですか?」
「他に、この音が聞こえるやつが、どこにいる?」
「あなたも聴こえてるんじゃ」
「そう。おれと、おまえだな。そして、おれはこの音が、大っ嫌いだ。だから、おまえが出てくれ。じゃあな。楽しかったぞ」
そう言って、その人は、自転車に乗って、逃げるように行ってしまった。
あぁ、せっかく見つけた人だったのに。せめて帰り道のヒントだけでも、もらいたかった。それに、もっと、ピートノスペーポーの音を、聴いていたかったのに。
またぼくは、一人になってしまった。
ジリリリリリリリ。相変わらず、音は鳴り響いている。この音は、なんの音だろう。
そうだ。電話だ。電話の先には、人がいる。そう気づいたぼくは、その光の中へと、落ちて行った。
狭くてうす暗い部屋に、ぼくは落ちた。その部屋は、濃い赤色の絨毯でできた壁に、囲まれていた。ぼくはそこにあった椅子に座った。目の前の机には、ダイヤル式の真っ赤な電話が置いてあり、さっきから、ジリリリリリリリと、音がしている。早く取らなくちゃ。
ぼくは、ドキドキしながら受話器を取った。
「もしもし」
けれどその後、なんと言ったら良いのか、分からないのだった。何も用意しないまま受話器を取ってしまった自分を、ぼくは激しく悔やんだ。
すると、電話口に、小さな声が聞こえた。
「もしもし」
人の声だ。それだけで、ぼくはほっとした。けれどやっぱり、その後が続かない。一体、この電話の向こうの人は、何を求めて、かけてきたのだろう。それが分からない限り、ぼくはなんと名乗れば良いのかも、分からなかった。
そんな心配をよそに、電話の向こうの人は、話し始めた。
「伝えて欲しいんですけど」と、その人は言った。誰かに伝言だろうか。
「あ、少々お待ちください」
とりあえず、言われたことをメモしておこう。そう思って何か書くものを探したら、電話の後ろに、紙と黄色い鉛筆が一本置かれていた。これだ、と思って、ぼくは鉛筆を手に取ると、受話器を握りしめた。
「はい、お待たせしました。どうぞ」
「伝えたい人は、母なんですけど」
「はい。お母さんですね」
ぼくは、紙に「お母さん」と書いた。
「それで、お伝えしたいことは、なんですか?」
もうこうなったら、やるしかない。開き直ったら、口からすらすらと言葉が出てきた。
「家のコンロの火が、つきっぱなしなんです」
「それは、危ないですね」
「はい。それを、伝えてください」
「わかりました」
そう言って、ぼくは用紙に、「コンロの火を消す」と書いた。
ガチャンといって、電話が切れた。これで良かったのだろうか。いつのまにか、冷や汗をかいていた。ぼくは狭いその部屋から出て、これをどうしたらお母さんに伝えられるのか、誰かに聞こうとした。けれどその部屋に、扉はなかった。
どうしたら良いんだろう。そう思っていると、またジリリリリリリリと電話が鳴った。
「はい、もしもし」
とりあえず出なくては。そう思って、ぼくは受話器を取った。
「あの、伝えたい人なんですけど」
またか。と思った。さっきの人のことも終わっていないのに、どうしよう。
そのうちに、受話器の向こうの人は、もう伝えたい人の名前を、しゃべり出していた。
「ミカエです」
「はい、ミカエさんですね」
ぼくは用紙に、すらすらと名前を書いた。
「今、迷っていて。東に行こうか、西に行こうか」
「はい」
ぼくは、東と西と書いた。
「それで、東に行ってほしいんです」
「東ですね……」
ぼくは、東の方に、しゅっと丸をつけた。
「はい。そっちの方が良いので」
「わかりました。お伝えしますね」
「よろしくお願いします」ガチャ
どうして東が良いのかは聞かなかったけれど、大丈夫だろうか。そんなことが頭をよぎったが、とりあえず今は、急いでいるのだから、しかたがない。ぼくは出口を探そうとして立ち上がった。けれどもまた、ジリリリリリリリと、ベルが鳴った。
「はい、もしもし」
ぼくはまた、椅子に座り直しながら、受話器を取った。
「あの、妻のことなんですけど」
それにしても、みんなすぐ本題に入るな。
「はい。どうぞ」
ぼくは用紙に、「妻」と書いた。
「寝てるんですけど、起こしてもらえませんか」
「せっかく寝ているのに、起こしてしまっていいんですか?」
「はい。道路の真ん中で、寝てるんです」
「ああ、それは危険ですね」
ぼくはすかさず、「道路の真ん中。起こす」と書いた。
「よろしくお願いします」ガチャ
息つく間もなく、またジリリリリリリリと、電話が鳴った。
「はい、もしもし」
けれど、今度の人は、だまっていた。いくら待ってみても、何も言わない。
「もしもし?」と、ぼくはもう一度言ってみた。
ぼくはじっと耳をすました。すると、かすかに人の気配を感じた。電話の相手は、受話器を持ったまま、ただじっと、だまっているのだった。
電話が置いてある机の上を、一匹のカメムシが、歩いて行った。一体どこから入ってきたのだろう。そう思いながらそのカメムシを目で追っていると、ふいにガチャンと電話が切れた。
今の電話は、なんだったのだろう。一瞬目を離したすきに、カメムシは、どこかに行ってしまっていた。つぶしてしまわないだろうかと、ぼくは不安になって、ずいぶん探したけれど、そのカメムシは、完全に姿を消していた。
カメムシが出て行ったということは、どこかに隙間があるはずだ。ぼくは、その隙間を探し始めた。早くここから出て、伝えることを、伝えなければ。
もし今度電話が鳴っても、もう出ないぞ。と、ぼくは心に決めた。そして、出口を探し始めた。絨毯ばりの壁を手で探っていくと、爪が少し引っかかる所があった。ここだ。
少し壁をはがすと、穴が開いた。穴からは、光が差し込んでくる。のぞいてみると、もうそこは、外だった。まぶしい明かりと、冷たい風がひゅーっと目に飛び込んできた。ぼくは隙間に手をかけた。その時、ジリリリリリリリと電話が鳴った。
でもぼくは、もう出ないって決めていたから、その電話を無視した。その瞬間、ベリベリッという音を立てて壁がはがれ、その向こうに真っ青な空が見えた。
「わあ」
ぼくは、まぶしくて腕で目を覆った。あちら側に行けば、すぐにでも手が空に届きそうだった。こうやって、みんな空をつかむのか。そう思って、ぼくはその隙間から抜け出し、空の方へ、ゆっくりと、とよいで行った。
少し目を開けると、そこはもう、空の目の前だった。
空には、のんきに雲が浮かんでいた。ぼくは両手をめいっぱいのばした。手が、空にふれた。それは暖かくて、するするしていた。ぼくはまだやわらかい空のはしっこをちぎると、右手でつかんだ空のかけらは右ポケットに、そして左手でつかんだ空のかけらは左ポケットに入れた。すると後ろから、聞きなれた声が聞こえた。
「楽しんでますねー」
「え?」
振り返ると、そこにはマスターがたたずんでいた。