映画『NOPE/ノープ』考察【ネタバレ有】
2022年に公開されたSF映画『NOPE/ノープ』。映画『ゲット・アウト』や『アス』等のホラー作品を手掛けてきたジョーダン・ピール監督の最新作です。
ホラー作品が続いているので、本作もホラー映画……かと思いきや、少し雰囲気が違います。怖いシーンもあるものの、メインはSF。本作は一見関係ない出来事の「リンク」が続く奇跡のドラマです。
今回はそんな奇跡の映画を考察していきます。
※ネタバレが含まれます。
【考察①】チンパンジーのエピソード
チンパンジーのゴーディが出演者を殺した事件はかなり強烈でした。本作のホラー要素はこのゴーディ事件です。
恐らく、このエピソードのモデルになったのは「ブルーノ」でしょう。ブルーノというチンパンジーは、売買されていた弱ったチンパンジーでした。そこを保護され、人間と一緒に暮らすようになります。
人間との生活で、人間にも道具にも詳しくなったよう。保護区に移された後、フェンスを解錠し他のチンパンジーを引き連れて脱走します。そして、ガイドと観光客のグループを集団で襲いました。運転手は車から引きずり降ろされ、爪をはがされ、指を切断され、生きたまま顔から食べられたのです。(詳しくは「ブルーノ事件」で調べてみてください)
チンパンジーはそもそも穏やかな生き物とは言いにくい動物。仲間同士で殺し合いがあったり子殺しもあったりと、攻撃的な一面があります。子どものチンパンジーならば一緒に暮らしたり、テレビで共演したりすることも可能です。しかし、成長と共に攻撃性が抑えられなくなってしまうよう。
さらに、人間との生活で知恵をつけてしまう頭の良さも恐ろしいところです……。
あなどってはいけない相手だということが分ります。しかし、チンパンジーだから分からないだろう、と油断したり笑いものにしたり……。
本作のエピソード「ゴーディ事件」は、そんな人間への皮肉が込められているように感じます。
【考察②】「リンク」する奇跡
本作には様々な奇跡が起きます。奇跡とは都合の良いものだけではありません。偶然が偶然を呼び幸運に恵まれるものもあれば、天文学的数字の偶然が起きて最悪の事態が起き続ける最悪の奇跡もあります。幸運の奇跡もあれば、不運の奇跡もある、ということが本作で語られました。
例えば、ジュープが奇跡的に宇宙外生命体をショーに使用することができ、そのせいでその生命体はコインを偶然OJの家の上で吐き、偶然OJの父親の目に直撃。
そのせいで牧場はもっと経営が難しくなり、もっと馬をジュープへ売る。そしてジュープはその馬を使ってもっとショーをする……。奇跡の悪循環が生まれているのです。
しかし、本当の奇跡は「過去の出来事と現在の出来事がリンクしていること」でしょう。
本作では「ゴーディ事件」のエピソードと本作本編の「OJの物語」がリンクしています。
ゴーディを「使った」番組は大成功。このチンパンジーをもっと使って世間を驚かせよう、儲けようと危険性を学ばないままに、本番が始まります。彼をコントロールできると思い込んで……。その結果ゴーディは出演者を殺しまわる惨劇の幕が上がります。
この不運の中で3つの奇跡が起こりました。1つは、靴がありえない立ち方をしたこと。1つは、「目を合わせた」ことでゴーディをコントロールしたこと、そしてもう1つは、ジュープの生還。
OJに起きた事件は……。
ジュープが生物を「使った」ショーを思いつく。この生物を使って世間を驚かせよう、と生物の危険性を知ろうともせずに、本番が始まります。生物をコントロールできると思い込んで……。その結果、生物はジュープたちを殺しまわる惨劇の幕があがります。
この不運の中で3つの奇跡が起きました。1つは、生物の習性を知ることができた(調教を可能にした)こと。1つは、「目を合わせた」ことで生物をコントロールしたこと。そしてもう1つは、OJの生還。
不運の奇跡が続く中で、幸運の奇跡とリンクが合ったのです。
【考察③】目を合わせる・合わせない
目を合わせる・合わせない、これにOJの調教師としての設定がマッチングしているのが素敵でした。OJは生物ならば「目」があるならば、調教できると気付きます。
この「目を合わせる・合わせない」ということは、本作においてとても重要なキーになっています。
「目を合わせる」こと。本作では、相手が対等であることを意味しています。
「目を合わせない」こと。本作では、人間が相手を見下す時にやっています。または、相手を調教する時に。
「ゴーディ事件」の時、出演者はカメラを見つめます。俳優陣同士は目線をあわせているものの、同じ出演者の立場であるはずのゴーディのことは見ないのです。カメラもゴーディを映しません。本作中で、チンパンジーのゴーディがほとんど映っていないのは、「周りの人間が彼を見下している」ことを演出しているのかもしれません。
ゴーディが突然キレたのは、本能によるものなのでしょうか。もしかすると、「対等に扱われない、見下されている」ことに怒ったのかもしれません。
だから、ゴーディはジュープと目が合った時「対等だ」と感じて、攻撃しなかったのかも。最後のグータッチの仕草は、やり直せたのかもしれない「対等な関係」だったのか……?
目を合わせる・合わせない、見下しているか対等か。見下されていることに対して怒りと争いが生まれる。昔から続く、人間同士の争いへの「皮肉」もあるでしょう。
OJとエムにもそんな過去がかります。彼らの場合は、父親です。父はエムと目も合わせず、約束を破りました。しかし、OJはエムに「見ている」とハンドサインをして、決して彼女を無視しません。
それは、最後の戦いの時まで一緒でした。彼らは常に「対等」なのです。物語でここまで「目を合わせる・合わせない」で争って来た中で、「目を合わせる」決断をした彼らが格好良いシーンです。
【考察④】調教師の存在
OJは相手を「動物」だと言い、調教し、コントロールしようとしました。これは、他の人間たちと同じような、相手を見下す行為に見えるかもしれません。しかし、そうではないと私は考えています。
OJは馬を見下しているでしょうか。調教しコントロールしていますが、どんな時も油断はしていません。馬たちが嫌がること、狂暴になってしまうスイッチを知り、そういった行動は一切しない。馬が自分たちよりも強い存在であることを知っているからです。調教は、相手を見下す行為ではなく、強い存在と共存するための手段。
共存できれば、強い存在は自分たちを襲わず、自分たちも強い存在と敵対する必要がなくなる。
ゴーディ事件の時にはいなくて、OJの事件の時にはいた「調教師」。
動物と人間、人間と人間の中に必要なのは「相手を恐れ敬う心構え」なのかもしれません。
まとめ
過去のエピソード、未来(本編)のエピソード。過去の牧場の栄光、未来の牧場の危機。過去と未来がリンクした演出も光る作品です。過去(西部劇)のヒーローのようなOJと未来(「AKIRA」)のヒーローのようなエム、の対比もまた印象的でした。
どんな生き物であろうと、相手であろうと、自分より下だと思ってはいけない。「利用」しようと、見下してはいけない。
そんなことをしたらどんなしっぺ返しが来るか知っているであろうジュープも、そんなことを忘れ、同じことを繰り返す……。
本作には、痛烈な皮肉が込められています。
ジョーダン・ピール監督のこれまでの作品にも、本作のような「皮肉」と「願い」が込められていました。
本作の皮肉や伏線の「リンク」がある作品が好きなら、他のジョーダン・ピール作品も是非。