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意味なんか後からついてくる

 最近は意味のあることしかやりたくないと思うようになってしまった。優先度の高い、よりやる意味のあることからタスクをこなしていく、というのが頭の中の通常モードになってしまっている。効率を求めたがゆえの姿のはずなのに、なぜか毎日がすり減っていくばかりなのはなぜだろう。

 それに対して、2歳の娘は意味なんてわからないままに色々なことをこなしている。娘はいつもテレビを見ながらノリノリで踊る。そこには何の意味も打算もなく、ただ画面の中のお兄さん・お姉さんが楽しそうに踊っているのを見て自分も踊っているだけだ。その姿を見た私が「すごいね」と拍手して喜ぶからますます嬉しくなって踊る。踊っている娘のなんと楽しそうなこと。

今一番ハマっている仕草は「じゅー」っと抱きしめてくれること。これもおそらくはテレビからの受け売りなのだが、ママの顔に手をまわして「ぎゅー」っと抱きしめてくれる。「ぎゅー」とうまく言えない娘は「じゅー」と言って抱きしめてくれる。この「じゅー」がどんな意味を持つのかなんて娘はいざ知らず、ママだけが大喜びしている。

 日常のすべてがそうかもしれない。手を洗う。ごはんを食べる。おもちゃで遊ぶ。お風呂に入る。娘は手を洗うということにどういう意味があるのかは知らない。でも外から帰ったりごはんを食べる前になると「おててあらうよ」と言われることを予期していて、自分で腕まくりをして洗面所に来る。ごはんを食べることの意味なんて知らないけれど、お腹が空くし美味しいから食べる。親がおもちゃを与えて遊ばせることの意図なんて微塵も知らないけれど、おもちゃで喜んで遊ぶ。お風呂に入る意味なんてわからなくても、お湯につかれば気持ちいい。

 本当は、意味なんて後からついてくるもので、端から意味を求めるのは本末転倒なのかもしれないと思う。コスパやらタイパやらそんな言葉もなんとなく近しいものを感じる。パフォーマンス(成果)が高いかどうかは今すぐ測れるとは限らない。今の自分のものさしでは全く測れないくらい大きな成果はずっと後になってからしかわからないのだから。


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