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空港までの1時間。タクシーにて

「空港まで30万ドンで行ってくれない?」

出会い頭に難解なベトナム語で交渉してきた外国人に、40代とおぼしき長身のタクシードライバーは困惑の表情を浮かべた。

「メーターの金額でいいだろ?」
やっぱり簡単にはいかないか。このやり取りが苦手なので通常空港までは安価なシャトルバスを使うのだが、この日は急を要していた。私のベトナム語が通じるか分からないが、ダメ元で言い返した。
「でも、他のタクシーは20万ドンで行ってくれるよ」
事実だった。某タクシー会社は空港から35㎞圏内を一律18万ドンと決めている。その最安値よりは上乗せした金額だった。
「いや、無理だよ」
キッパリ言いきったドライバーに「ソッカ。ザンネン」と日本語で返し、背を向けた。見渡すと500mほど先の対向車線側に別のタクシー会社の車が止まっている。交渉2台目に標準を合わせようとしたとき、後ろから「わかったよ」と声がした。
振り向くとドライバーは運転席に腰を下ろすところである。急いで後部座席に乗りながら「30万ドンね」と念を押すと、振り向きもせずに「OK」とばかりに手を振った。

夏休みの週末、ダラットの中心部は人口密度が上がる。当然、道路上も道に慣れていない観光客のバイクが増えるため、事故が多発するし、混雑もひどい。この日は比較的空いていたが、それでも平日の進み具合よりは鈍かった。こんな時にメーター計算だと空港までの道々が少しストレスになる。50万ドン以上になると明日の食事に響きそうなのだ。こちらも真剣である。

無事に中心部を抜けて気持ちよく進むようになった頃、おもむろにドライバーが振り向いた。「ちょっとそこでバインミー買ってくる」。唐突で内容をつかみきれず「えっ?」と聞き返すと「バインミー。昼ごはん食べてないんだよ」と言う。午後3時半である。まぁいいか、バインミーを買うくらいたいした時間ではない。私が頷くと、早速小道に入って車を止め、路上のバインミー屋台に「全部入れバインミー2つ」と声をかけた。

路上に座っていたバインミー売りの女性は振り向き、めんどくさそうに立ち上がってパンに手をかける。ドライバーは車を降り、屋台の隣に立った。見ると彼は勝手知ったる手つきで袋の準備をしている。そんな姿が滑稽で、私もつられて降りた。わざわざココを選んで立ち寄るほどに美味しいのだろうか。豪華な「全部入れ」とはいかなるものか。少々期待して見ると、思いがけず台の上の具材は乏しく、煮込みつくねとカマボコしかない。

「全部入れって何?」
驚いて聞いた。
「カマボコだよ」。
それだけ? 言葉に全くそぐわない淋しい内容で思わず笑ってしまった。女性はカマボコをパンに挟むと醤油で味付けした。もっともシンプルなバインミーである。
「あんたも買えば?」
「私はお腹いっぱい。2つも食べるの?」
「両親の分だよ」
両親? じゃあなんで3つじゃないのかなと思ったが、聞いても返事を聞き取れないかもしれないのでやめた。
まるで助手のようにドライバーは出来上がったバインミーを自ら袋に入れた。人懐っこい彼をよそにバインミー屋の女性は最後まで愛想が悪かった。

車に戻り時計を見ると3時40分になりそうだった。
「4時10分までに空港に着きたいんだよね」
「何時だって?」
「4時10分」
「分かった!」

バインミーのやり取りで少し気を良くしたのか、陽気に答え、わかりやすいほどにスピードを上げてくれた。対向車線にはみ出して前の車両を追い抜くときはヒヤリとしたが、運転が下手なわけではないようだ。彼の対向車との距離の目測は確かなようで、いつもジャストタイミングで走行車線に戻った。そして、案の定、私のプライベートについて尋ねてきた。初対面のベトナム人が決まって投げかけてくる質問である。「何歳?」「結婚してるの?」から始まり「ベトナムで働いているのか?」「空港からはどこに行くのか?」に至った。話しているうちに彼は私と同じ歳だということがわかった。曲がりくねった山道だというのにドライバーは振り向いて大げさに驚きを表現した。すこしハラハラしたが、同じ歳というだけでこれほど盛り上がっていることに純粋に楽しかった。

一通り話終わると高速道路に入った。料金所で何枚かのお札を渡している。実は以前から気になっていたのがこの高速道路の通行料である。通常のタクシードライバーには尋ねきれないが、この人になら聞けるかもしれない。ゲートをくぐった後に話しかけた。
「ここの通行料いくら?」
ドライバーは少し考えてから答えた。
「行きに3万ドン、帰りに3万ドン。そして空港に入るのに1万ドンするんだよね」
いずれも想定内の値段であり、それも込みでの30万ドンの設定だったが、この時になると少し気持ちが変わっていた。財布には50万ドン以外のお札がちょうど37万ドンあった。ぴったり同額あるのも、つまりそういうことなのかもしれない。

「30万ドンと7万ドンね」。
空港につき振り返ったドライバーにお札を渡すと、驚いた様子だったが、すぐに「ありがとう。ホントありがとうね」と満面の笑みを見せた。メーターを見ると41万ドンで、最終的にさほど変わらない値段だった。

車を降り、ロビーに向かって走りながら、考えた。結局はお金の話ではなかったということを。彼と過ごした時間で私は随分報われた気がしていた。

高速道路に入る前、気になって彼に尋ねたのだ。
「あなたは私の言っていることが理解できるんだね?」
「分かるよ。ベトナム語上手じゃん」

ホッとした。未だに、分からないと言われる。同僚ですら分からないときがある。しかし、聞こうという気持ちがある人は私の言葉を分かってくれる。そのことがとても嬉しかった。

2年間で新しい言語を学ぶことは私にとって容易ではなかった。会話がままならずにコミュニケーション不足に陥り、孤独を感じることの方が大半だった。だけど、言葉よりもきっともっと大事なことがあるんだろうということを、時々、街の人が教えてくれる。

同じ歳の、歳の割に人懐っこく素直なあのドライバーと、また会える日があるだろうか。再会したら彼は私を覚えているだろうか。もしも覚えていなかったら、その時はもう一度、値段交渉から始めたい。


#ダラット #ベトナム #dalat #vietnam

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