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私の話と新年のライブの宣伝


こんにちは、佐藤です。
表題の通りの記事になります。宜しくお願いします。

人生振り返ってみたらめちゃくちゃ長くなったので目次があります。お好きなところをお読みください。



絶対に来てほしいライブ概要


フライヤー(デザイン:佐藤和泉)

自信を持ってさあどうぞ!2025新春特番イベント『天翔る音夜』
日程┊︎ 2025.1.13(祝・月)
会場┊︎ 秋葉原Galaxy
時間┊︎ OPEN / START 17:20 / 18:00
料金┊︎ リハーサル見学権付き前列限定指定席 5,500円 / 自由席 4,000円(どちらも+1D)

出演者さま(敬称略・順不同):總水とおま、導星ゆな、道又愛、柚井ゆい、小神野りえ(ヴィオラ)、天翔ゆい

🕡18:00〜18:45 番組パート収録
🕖18:50〜20:20 会場スペシャルライブ
🕗20:20〜21:00 特典会

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まずはじめに


みなさんこんにちは、佐藤和泉と申します。
佐藤和泉って誰やねん、という皆様向けに軽く自己紹介をさせて頂きますと、クリエイティブオタクシンガーを名乗り都内を中心にアニソンをカバーして音楽活動をしている者です。

クリエイティブオタクシンガーとはなんぞ?というと、こんな感じです👇🏻




クリエイティブ→フリーランスでグラフィックデザイナーをしており、仕事や趣味でデザイン制作やイラスト・漫画等も描いており、活動におけるクリエイティブ全般は自らが手掛けていることから。


オタク→音楽、歴史、アニメ漫画ゲーム、競馬、西川貴教さんや羽生結弦さん……等々色んなジャンルでオタクをしていることから。


シンガー→そのまんまです。




そんな造語を作りまして名乗り始めて早2年ちょいとなりました。

なんでわざわざそんな造語を……?と思った皆様もおられるでしょう。
それはソロシンガーとしてどうしたら多くの人に知ってもらえるだろうかとSNSの運用やブランディングを考えてネットの海を漂っていた際にたまたま見かけたこちらの記事でファーストサマーウイカさんが仰っていたことを参考にしています。

(中略)というのも、3つの要素で言い表せる人は印象に残りやすく、端的に言えば「売れる」と考えたからなんです。

「1位になれない」と気づいてからが勝負。
ファーストサマーウイカに教わる「自己プロデュース術」
- ミーツキャリアbyマイナビ転職



なるほど確かに一理ある。と思い、私を表現する3つの要素とは?とめちゃめちゃに考えて絞り出した結果がクリエイティブオタクシンガーだったという訳です。



普段はオケを流してのライブ活動をしておりますが、2025年1月13日のライブでは初の生バンドをバックに歌います!
西川貴教さんが大好きで、あのライブスタイルに憧れのある私的には貴重な機会であり、経験です。

そしてオーボエも少し吹く予定でサポートでヴィオラも入るという普通のライブでは滅多にお目にかかることの出来ない編成になっております。

折角ならこの豪華な機会に佐藤和泉のライブを聴いてくれて応援してくださっている方々はもちろんのこと、名前だけ知ってる方、何度か対バンで聴いてくれた方など佐藤和泉をあまり知らない人たちにもライブに来て聴いて頂きたい!そしてあわよくば、あわよくば好きになって応援して頂きたい!!!!

そう思いまして、佐藤和泉とはどんな人間なのか?これまで歩んできた人生と、どんな思いでこの活動を始めて現在ステージに立っているのかについて長々と語らせて頂き、佐藤和泉を知る一助にして頂ければ幸いでございます。








幼少期


3歳からピアノを習い、リトミックやソルフェージュといった英才(?)教育を受け将来の夢は「ピアニスト」というところから私の音楽歴は始まりました。

実は3歳から小学生低学年くらいまでは東京のピアノ教室まで栃木から通っており、その他にも英会話塾やそろばん塾、一般的な塾などなど、たくさんの習い事をさせられており、長女ということもあったのか幼少期の私に両親がだいぶ期待をかけていたようでした。

また、当時通っていた音楽教室では絶対音感プログラムというものがありまして、それにより9歳だったかな?絶対消えない絶対音感取得されました!おめ!みたいな賞状をもらいました。
実は幼少期、だいぶクソガキ中のクソガキでそれはもう手に負えない暴れん坊将軍ぷりでほとほと両親も手を焼いていたようなのですが、しかしながら割と「やればそこそこなんでもできる子」ではあり、絶対音感とか持ってしまったが故に「わたしって天才では?」と音楽だけは人一倍出来て才能があるんだ!とすごぶる調子に乗っていました。

たとえ何か出来なくても、苦手なものが多くても。私には音楽があるから。何か一つでも人よりも出来る、得意だと言えるものがあるから。
別に他が全て出来なくても大丈夫。そう思っていました。


クソガキ時代です



とはいえ私は大の練習嫌いで特に毎日毎日母に強制してやらされる練習が本当に嫌いで、1日絶対何時間やれとかやらないと怒られたりとか、下手だの変だの。色々言われ続けそういうのがすごく嫌で母の前で練習するのがやんなっていたこともありました。
けれどピアノや音楽自体は大好きなので、やめたくなかった。
いつも母との大喧嘩が繰り返され、小学校低学年の終わり頃には東京の教室を辞め栃木にある音楽教室に通うことになります。




中学時代


中学生になると部活動というものが発生しますね。
他の学校はどうだか存じませんが私の通っていた学校は全員何かしらの部活動に入らなければならなかったので、私は悩むまでもなく吹奏楽部に入りました。

入ってまずやることは自分が担当する楽器の選択。
私は音楽教室でソルフェージュを教えてくださっていた先生がオーボエがご専門の方で、レッスンが始まる前や後によく吹いていたのを見ていてその音色があまりにも美しくて、オーボエっていいな!とずっと思っていたこと、そしてこの頃のだめが一大ムーブメントを起こしており黒木くんがね……かっこよかったんよ……という理由によってオーボエがやりたかったんですが、弱小中学にはオーボエがなく出来ず無念。

じゃあ何にしようかなぁとなった時にフルートがやりたいなーと思って吹かせてもらったら全然吹けず、クラやサックスといったシングルリードもダメ、トランペットも吹けなくて、唯一トロンボーン、ユーフォニアムあたりが吹けたので、吹けないけどやってみたいフルートを第1希望ににしつつ、吹けた楽器を2〜3希望で書いたら見事にユーフォニアムになり「てかそもそもユーフォニアムってなんやねん初めて聞いたが?」と思いながら私の吹奏楽生活は幕を開けました。


実はこの頃割とグネグネにひねくれていて、中学にもなると周りに音楽が出来る子に出会うことが増え、調子に乗ってたクソガキも「あ、私井の中の蛙だったんだぁ」って感じることが増え、「私っていうてそんなピアノ上手くないしピアニスト難しいんじゃね?てか音楽の才能ないんでは?」とわからせられる機会が何度かあり、ピアノ教室も2年生の頃に私があまりに練習しないもんだから「金の無駄」と言われてやめさせられて😂、ずっとアイデンティティだと思っていたものを失くして(いうて自業自得ではあるのだけれども)「俺には何もない、何も……」と大病み期に入っていました。

そしてピアノの代わりに部活に精を出してユーフォニアムを頑張っていたんですが、まぁ吹奏楽って個人プレーではないし、私がどれだけ本気を出したところで熱量の違いとか技術とか色々違うし、そんなに強くはない学校だったので、ぬるま湯に浸かっているような感じでした。
それでも楽器を吹いたりみんなで合奏するのはすごく楽しくて、やっぱり音楽が好きだなって気持ちは変わらなくてなんなら増すばかりで、どうしたら音楽を仕事にできるかなぁという憧れは私の心の中にずっと残っていました。

そして急に「ドラムやる予定だった子がいなくなって探してるんだけどやらんか?」と吹奏楽の部員に声を掛けられ学祭までの期間限定バンドのドラムとして急遽ブチ込まれ、「ドラムぜーんぜん触ったことないし譜面も読み方わかんねーーが!?」と思いながら数ヶ月でなんとか身につけて無事学祭で披露出来たという出来事もありました。
この時もドラムを叩くのすごく楽しくて、「私意外となんでも出来んじゃないか……?」と思ったり思わなかったりしていました。

音楽以外では日本史好き、土方歳三好きになったのもこの頃でした。

実は私の中学校はまぁ……荒れに荒れておりまして。
1年生の頃なんか先生が授業してても喋ってるし手紙は飛び交うし授業聞かなすぎて先生が泣いて出ていっちゃうし、校庭で上級生が遊んでたり池の水が抜かれたり卓球台がスケートみたいにサーーッて廊下を通り過ぎて行ったり……なんか……ヤンキー漫画の舞台ですか?みたいに荒れていた……んですよ……
振り返ってみればよくもまぁ私はあの環境下でグレずにすくすく育ったと思うんですが笑 そんな環境で私たちが2年に上がった頃に市内で荒れた学校に来ると言われている怖めの先生が赴任されてくることになり、なんも悪いことしてないのに私はビクビクしてたんですけどもどうやら私の母の同級生らしく、よく話しかけてくださったお陰で私はすごくその先生に懐いていて、わからないところを生み出したり話しかけるきっかけを作るためにその先生が教える社会科目を猛烈に勉強して真面目に授業も聞いて……としていたら社会科目が好きになって、その頃にちょうど薄桜鬼と出会って「ウワーーー!!!!!土方歳三さまを神と崇め奉ります」と立派な土方オタクへの第一歩を踏み出した時期でした。

風の噂でどこかの校長先生をやっていると聞いてめちゃめちゃ会いにいきたくなってしまったのですが、ただ向こうは覚えてなさそうだな……私のことなど……笑

また、西川貴教さんオタクになったのも丁度この頃。
ノンスタ井上さんがモノマネ紅白で歌ってたホトリミがいい曲だな……と興味を持って(そんな入り方があるか?)、調べてみたら丁度当時ハマっていた戦国BASARAの主題歌を歌っていて、いい曲ばかりで歌も激うまい……見事にファンになりました。初ライブはCLOUD NINEです🥹




高校生時代

初めての高校受験でオーケストラ部がある高校に行きたくて志望校を決め受験したんですが、まぁ学力が足りなくてですね……見事に落ちて滑り止めの高校に入ったのですけども、中学で色々経験してもう音楽はいっか〜才能ないよねワタシ……と挫折しつつ半ば諦めかけていた私の元へ中学からの同級生がやってきて「吹奏楽部に見学に行きたいけど1人じゃ行きづらい…」と言うのでついていくことになった。
そこで演奏を聴くと中学とは比べ物にならないくらい上手で楽しそうに見えて、そうだよな、私やっぱり音楽が好きだし、プレイヤーでいたいんだよなって気持ちが思い出されて、私も音楽をやりたい!あっち側でいたい!と気づいたら入部していました。
なお、私のことを連行した友人は入らなかったという……なんでやねん。

そしてオーボエをやっている人が高校に居て、「え!あるんだ楽器!」って嬉しくなって希望を出したんですが、オーボエの人々はその人個人の(!?)楽器だそうで、学校所有の楽器はないと言われ、しょんもりしながらじゃあ……と中学でやってきたユーフォを選択して学校の楽器を貸して頂き吹いていたら、何故か急に呼び出されて、「え、私早々に何かやらかしましたか?」って不安と共に向かうと、顧問の先生から「オーボエ、貸せる楽器があるからやらないか」というなんとも渡りに船なお話でした。

ずっと憧れていたオーボエを吹くことができるとあってめちゃめちゃ嬉しくて楽しくて早く先輩や先生たちみたいな綺麗な音が出したくて私は練習に熱中していました。
これまたなんの縁なのかその指揮をしている顧問の先生もオーボエ専門の方で、なんと私が通っていた音楽教室のオーボエの先生とお知り合いらしく、世間って狭いんだな……と思いました笑

そんなこんなでオーボエの楽しさと吹奏楽の楽しさを感じる恵まれた環境で1年生を過ごし、部員の皆さんと仲良くする中で「やっぱり音楽って楽しいよな!!!これを仕事にしたいぜ!!!!」という気持ちになり、丁度その年に大好きなオーボエの先輩が普通科から音大に入学したことも私の決心を後押しして、2年生に上がる前の冬にオーボエで音大を受けることを決意しました。

楽器なんか高くて買えるわけねーだろと思われていたのですが、恐らく我が家イチ富豪の叔父さんが「買ってやろう」と神の慈悲でオーボエを買ってくれることに(???)なり、レッスンも顧問の先生がしてくださることに……と恐ろしくトントン拍子に事が進んでいきました。

そして2年生になり夏の名物コンクールの練習をする中で、私はすごく嫌になっていることが一つあったのです。

それはOBOGと混ざった編成で高校部門ではない部門に出ることでした。
その頃基本クソガキメンタルな私は「なんで高校の部活動なのにOBOGがしゃしゃり出てきてOBOGの基準で指導されて俺たちが怒られなきゃならんのや??」「つかこの1人1人フレーズを全員の前で吹かされる公開処刑心の底から嫌なんだが!?なんでやねん!!むり!やりたくない!ほんとやだ!なんなんですか??」等々色々な不満を持っていました。
今振り返れば……というところも勿論あるんですが、当時は本当に気に食わなくて嫌で仕方なくて日々の不満に感じることがちりつもになり、ついに爆発して私は部活をサボり散らかすようになります。

いや、普通にやめればええやん……と思うかもしれないが、何人か辞めた子の中で死ぬほど引き止められてめんどかったという話を聞いており、「え、じゃあ引き止められないくらいゴミになって向こうから追い出してもらえば良いんじゃね?」という結論に至り、アホな私はここで見事不良になったわけである。


グレてた頃の人


そうしてサボり散らかしていればまぁ当たり前に呼び出しがかかるわけで。「お前部活辞めるって音大行きたい話どうすんねん」みたいな話を顧問と繰り広げ、いやそれはそれこれはこれやないかいと思いながらめんどくさくなってなんか責められるのも無理になって勢い任せで「諦めます!!」って喧嘩して帰った気がします。
この時の記憶があまりない。もしかしたら違うかもしれない。私が駄々こねただけかもしれない。

嫌いになったわけじゃないし、大好きだし、楽しいし、諦めようと思っていたわけじゃないけどでももうこの環境に身を置くの嫌なんだよな……ってなっちゃって、一刻も早く離れたかったんですね。

その後先生と両親とでなんや話があったらしくそれで両親とも割と大喧嘩を繰り広げうるせ〜〜〜しらね〜〜〜〜!嫌なもんは嫌なんじゃ〜〜〜〜!!!と気持ちを曲げず、そのまま喧嘩別れみたいな感じで部活を辞めました。
その後割と病み散らかして大変なことになってたけどまぁそこは割愛。


それから進路はずっと好きだった日本史か文学を勉強したいなと思っていたところで、日本史の先生方がとても好きで授業も面白くて更に好きになったのと、薄桜鬼熱がずっと冷めず土方さんのこともっと知りたい!あと古文書読めるようになりたい!となって日本史専攻に進もうと決め、人生で一番真面目に勉強というものをひたすらしていた3年生になりました。





短大時代


とはいえ勉強頑張ったけれど英語があまりにも苦手過ぎて足を引っ張りまくり、志望校は全落ちして滑り止めで受かったところに入りやる気全滅しながら入学したんですけど、日本史専攻は当たり前ですがみんな周りが日本史大好きな人、しかもだいぶ極めてるオタクばかりで「こ、これが大学!!!!日本史専攻!!!!」とおもろくなったのを覚えています。


弓道部のパイセン


みんな個性が爆発していて面白い人間しかおらんし、先生方は距離が近く話しやすいし、授業も専門的なことで興味深いし好きな事を勉強するのってこんなおもろいんだ!!!!ってなって。サークルも掛け持ちOK色んなものがあって、弓道部、中世史、近代史研究会、漫研落研……等々。何個も掛け持ちしたり、みんな歴史好きなので博物館や史跡などを巡ったり、旅行に行ったりとめちゃめちゃ充実して楽しい大学生活を送っていたのですが、夏頃になり一つの心残りが蘇ってきました。


「オーボエ、腐らせてんの勿体なくね?」


高校卒業してからずっと吹かなかった折角叔父に買って貰ったバカ高いオーボエがこのまま腐らせておいたらあまりに可哀想という気持ちと、大学生活が楽しくて少しだけ心の余裕がもてて「音楽やりたい!」な気持ちが戻ってきて、折角吹奏楽のサークルがあるんだから入っちゃおうかな?という気持ちになり、時期がちょっと遅いけれどサークルの見学に行きました。
そして行ってみると「え!?オーボエ!?しかも自分で持ってる!?」とザワッとし笑 見学してから考えようかなとか思っていたら流されるままに入部していて、またオーボエを吹くようになりました。やめて以来一切吹いていなかったのですが、吹いてみるとやっぱり楽しくて、なんだ、私ちゃんと好きだったんだなって気持ちが溢れてきました。

コンテスト出た時のパイセン


我がサークルは割と活動に力が入っているサークルらしく、色んなところに演奏しに行ったり、コンテストに出たり……割と精力的に活動していました。
そうして2年になり、楽しい大学生活もあとわずか。
短期大学のため私は進路を決めねばなりませんでした。うちの大学は編入制度があり4年制への編入枠があるんですが、うちの学科は半分くらいが編入希望者で私も例に漏れず編入希望者だったのですが、なんと見事に編入枠に落ちます。わたくしってば受験系、悉く落ちてますわ〜〜〜〜〜!!!!!!

えぇ……まじ??となり、食堂で放心してたら(編入者はもう張り出されてて、そこに名前なかったので察された)友人たちがわざわざ来てくれてめっちゃ慰めてくれる中、現在10月。卒業まで5ヶ月くらいで編入以外の選択肢を考えてなかった私は「マジでどうすっかな……」と困り果てていました。

放心時の人(お菓子は友人たちが置いていった)


すると吹奏楽の顧問の先生からお呼びがかかり「何事!?」と思って行くと「編入落ちてたわよね、あなたどうするの?」と急に面談が始まりました。

吹奏楽のサークルの顧問の先生がまたいい先生でね、幼稚園や小学校教諭を目指す学部の先生なんですけど、学科が違う私のことも気にかけてくださって。厳しくもあるんですがすごく学生一人一人に寄り添ってくださる素敵な方でした。
それでまぁ、みなさん知っての通りわたくしポンコツですので、多分見ていて気が気じゃなかったんでしょうね、すごく気にかけて頂いていたんです笑

私もどうしようかなぁと思っていたのですぐに答えられなかったんですが、この時ふと高校の時に諦めた音大に行くという夢を思い出しました。
部活をやっている上で、やっぱり誰かと音楽を作り上げていくことの楽しさだったり、演奏することの楽しさが大好きだったんだ、私。って気付かされたというか……じわじわ思い始めてきて。

あと顧問の先生も経歴がちょっと特殊で大学を何個も出ている先生で、その先生の経歴を見て「4年制を綺麗に卒業すること以外にも選択肢ってあるんだ」と気付いたんです。
だから、多分3年次に音大に編入するのは史学科の単位じゃジャンルが違うし単位組み換え無理だろうし、音楽系の短大にもう一度入ってそこから音楽のキャリアを始めてみようかな?と思いました。

なので、「オーボエやりたいなって思ってるんで、編入は無理だろうから短大行こうかなってちょっと考えてます」って話をしたら、んなことできるわけないだろと笑われるかなと思っていたんだけど、真剣に聞いて笑わずにいてくれて。
「それなら今すぐ資料請求したり学校に実際足を運んでみたりしてみなさい」って色々手配してくれたりアドバイスをしてくださって、実際アドバイス通り行動してここ受けようかな、とか試験ってどんなもんかな、とか見てたんですけど、暫くして「あなた、この大学なら音楽学部以外も受け付けてるみたいだから編入もできるんじゃない?編入の方が大学卒業になるんだから絶対そっちの方がいいわよ」ってお話を頂いて、確かにと思いつつ全く受かる自信がなく「え、えぇ〜……?」ってなってたんですが、部活に指導に来てくださっていた先生が、どんな奇跡なのかその大学のオーボエの先生とお知り合いで「話通してあげようか?」という神のような話を提案して頂き、その大学のオーボエの先生にレッスンして頂けることになりました。

そうしてレッスンしていただいて「まぁ練習すれば大丈夫でしょ」(ほんまか??)と言われ「入学したらバシバシやるからね」と言われて試験練習と卒論、そして部活のコンテストが全て同じ月に被っているという全てを同時進行で進めるという地獄の日々を迎え、ヒィヒィ言いながら走り抜けました。
そして卒論も提出し終わり、編入試験も終え部活のコンテストもやりきり、無事編入試験に合格した時は本当に、本当に安心しました…………
顧問の先生をはじめ指導に来てくださっていた先生たちに改めてお礼をしまくり、編入までの期間は楽しく悔いなく色んなことをして過ごしました。

隣がその顧問の恩師。


短大の頃の先生方は今でも連絡を取ったり遊びに行くと覚えていて気に掛けて下さったりして、お父さんやお母さんが増えたような気持ちになってくすぐったくなります。今でもとても大好きな尊敬する先生方です。何か恩返しが出来たらいいなぁといつも思っています。




音大時代


そうして1人日本史学科から編入した私は、入学式に出ると同じく編入者が私以外にもいることに安心した……のも束の間どうやら系列の短大からの編入らしく、「ウワッ外部編入私1人!?!?!?!?もしや0からのスタートって私だけ!?!?!?!?」と震えていると編入の子たちが話しかけてくれて(神)どうにか編入組の子達とは打ち解けることができてよ、良かった〜〜〜〜!!これで孤独な大学生活回避〜〜〜〜!!!!!と一安心。

かと思えば1ヶ月足らずで全く知らない同級生たちとウィーンへ研修。オリエンテーションの際に「もうみんなこの2年間でグループだって人間関係構築されてる中私が入れるところはあるんですか!?!?!?」と震えていたら「一緒の部屋になろうよ!」と声をかけてくれた神が現れてどうにかこうにか楽しい研修になり、そこで同級生たちとも打ち解けられてそれ以降同級生たちと関わる機会が多くなり、いろんな子と仲良くなれてもう、本当に……本当に良かった…………(人見知りコミュ障)

ウィーンのパイセン


音大に入って最初に大変だったことは前期後期の試験に伴奏が必要になることで、しかも私の場合試験の他に研修でもっていく曲を1ヶ月で仕上げなければならず、つまり入学してすぐ伴奏してくれるピアノ科の人探しをしなければなかなかったことでぇ……本当にたまたま副科(主専攻(私の場合オーボエ)以外にとれる専攻、レッスンが受けられる)でピアノ科の後輩が居て、ツテがなさ過ぎた私はお願い君以外頼める人がいないんだぁぁぁと頼み込んで(最悪)どうにか伴奏してもらえたことがあってな……本当に……大変だった…………

そんな感じで、一般大学からの編入でルールとかそういうのが全く違くて戸惑いながらこの1年間でなんとなく理解して必死にどうにかやりつつ、同時期に入ったオーボエの後輩たちがあまりにも優秀でうますぎて打ちのめされ、「え、知識も技術も全てにおいて負けてて、大学の中で後輩に劣っているようで私は果たして大学を出て音楽を仕事に出来るのか?」という絶望と劣等感と日々向き合いながらバタバタとしていたらあっという間に4年になってしまいました。

たのしそ


流石に同級生とも打ち解けて仲の良い友達も出来て、伴奏をどうにか頼めるピアノ科の知り合いもできて😂3年よりはうまくやれてるかな……と思っていた。

……のですが。

もうオーボエを仕事をするのは無理なのかも……と諦めてシフトチェンジして本格的に就活に動き出し、最高学年だしねって任された門下のやることとかが大爆発して、あの、本当にメンタルが終わり散らかしまして……

今でも鮮明に覚えてるんですけど、GWにあった練習を綺麗に忘れていてすっぽかしていて、それに気づかず誰とも連絡をとりたくなくてスマホを切って一切見ずにベッドの上で寝るか横になってぼんやりするか静かに泣くぐらいしかできない日々を送り、ようやくGW終わってスマホつけたら色んな人から大量の連絡が来ててうわ……と自己嫌悪で更にやんなっちゃったりして。
この頃、就活は上手くいかんし大学はやることいっぱいあるし、日々後輩と比べて劣等感を刺激されるし、栃木から毎日通いで通学に往復4時間くらいかかってて身体的にも疲れてるしで本当に追い詰められ過ぎていて、電車のホームで遠くから電車が迫ってくると飛び込みたくなる衝動に駆られることが多くなって、本当に今までの人生イチ自殺を成功させそうな時期でした。

ただなんとか思いとどまって「多分これこのままだと死ぬな」と心療内科にかかってみたけれど、忙しさでそれどころじゃなく通院も定期的に行けず「就活もうええか……卒業してからで……」と大学のあれやこれやに専念することに決めて少しだけ負担減してなんとか乗り切りました。

音大時代は正直人生で一番しんどかったかもしれない。
それまで「人よりは得意かも」と思っていたものが大学行ってみたら全然得意じゃなくて、私より知識も技術も持ってる人がたくさんいて、なんなら私が一番無い。

それで「負けてらんねー!」ってプラスに捉えられれば良かったんですけど、私の場合「え、じゃあ私って全然ダメじゃん、音楽の仕事するとしてオーディションとかでこの人たちと戦う土俵にも立たなくない?大学あと2年でどうにかなるもんじゃなくない?」となってしまってだいぶ打ちのめされていたし、オーケストラとかブラスバンドとか人と何かやる時にすごくプレッシャーやストレスを感じたりするようになってて、当たり前ですけど遅刻厳禁遅れたら殺されるみたいなとこで、結果としては一度も遅刻したことはなかったけどずっと緊張状態が続いていたからめちゃくちゃに疲れたししんどかったな……

吹いてる人


とはいえ全てが全て辛かったわけじゃなくて、勿論音楽がやりたくてオーボエやりたくて入ったので、レッスンやオケ、ブラスに乗れることがめっちゃ嬉しくて。
オーケストラとか今まで経験したことなかったからすっごくテンション上がったし、楽しくて入れて良かった〜〜〜!!!と言う部分もたくさんあります!!
今でも連絡とったり会ったり遊んでくれる素敵な友達や今でも気にかけてくださる先生もいるし!!!
そんなこんなでヒィヒィ言いながら限界ギリギリでなんとか卒業にこぎつけ、卒業した後にある演奏会までなんとか終えて憧れの音大生活の幕を閉じました。



フラフラ時代


そうして卒業して、音楽はとりあえず暫くはいいや……となってさて働くかと色々調べてどんな仕事したいかなーって考えてた時に、デザイナーの求人を見つけました。

元々イラストや漫画を描くのが好きで趣味でもあったため、学生の頃に自分のHPを立ち上げたりした経験があり、それ楽しかったしデザイナーが今一番興味あるなーと応募するためにハロワに行って聞いてみると「この求人はイラストレーターとフォトショップ使えないとダメみたいで……」となにやら使用できるようにならないといけないソフトがあるらしいことを知ることになります。
どうすればいいかな……と考えていた時にその職員さんが「職業訓練というのがあって、デザイン系のものはちょうど6月開校のものがありますよ」とイラレフォトショとかデザイナーに必要なスキルとかが勉強できる訓練を紹介してくれてこれだーーー!!!となりすぐ応募。
どうやら応募人数が多かったらしいがどうにか食い込め無事入校。
平日は訓練、土日は巫女のアルバイトを始めて勉強の半年が始まりました。

訓練校時代のパイセン


訓練校は受講生15人くらいで、みんなでワイワイ楽しく勉強したり作ったデザインをプレゼンしたり、ストレスもプレッシャーもそんなに無い楽しい訓練生活を送れていました。訓練で出会った人たちは今でも仲良くしてくれる方が居ます。ありがたや。

そうして楽しい日々があっという間に過ぎて、就職が決まらないまま卒業。ちょうど卒業と同じタイミングで巫女も辞めて就職活動をめちゃめちゃ頑張っていました。

ただ、デザイナーの応募には履歴書や職務経歴書の他に必ずと言っていいほどポートフォリオと呼ばれる自分の作品集を提出します。
その作品を見てデザインスキルなどの判断材料となるのでかなり重要なものになるのです。
そして更にデザイナー職の求人は必ずと言っていいほど経験年数がある人を求めている……大体2〜3年。
その上栃木という田舎(県民、許せ)でデザイナーという職の募集も少なく、ほぼ全部の求人に応募して私は全てに落ちていた……

そうして「え、もうデザイナーとしてセンスないんか?ダメか?なれないか?」としょぼくれながら毎日ネットで調べて新しい求人があれば応募する、といった日々を送り、その間繋ぎでイベントや荷分けのバイトをしながら数ヶ月。
「諦めたら」という親の言葉に耳を貸さずにひたすら応募していると、ようやく広告代理店の派遣デザイナーとして働くことが決まりました。





デザイナー(1社目)

やっと決まった就職、それもやりたかった職業。ここから私のデザイナーとしてのキャリアは始まりました。
仕事内容は主にイベント系の広告物の作成や自社HPのバナーや画像の作成などなど、まさにやりたかった系統の仕事であったため私は歓喜しながらデザイナーの先輩と2人で仕事をしていました。

その頃のパイセン



そうしてやりたかった仕事に就けて毎日楽しく過ごす私でしたが、そんな私に突如不幸が襲い掛かります。

それがパンデミック、コロナウイルスの到来でした。

仕事の8割ほどがイベントの広告物であったため、コロナによって全てのイベントが中止されなくなってしまうことにより、我々の仕事もほぼほぼ無くなってしまいました。
そして1人しか居なかったデザイナーの先輩が辞められて、私は1人になりました。
そして違う部署にいたデザイナーさんが我が部署に来て、更にアルバイトの新人デザイナーがやってきました。

私が仕事がなくて暇してるのに新しい人を入れてどうするんだろう……と思っていたらなんと!派遣の私が切られたぜ!!(クソ)
業績悪化が理由だそうで、じゃあなんだよその私より出来ねぇ新人アルバイトはよと言う気持ちでしたが、まぁ何も出来るわけがなく退社。

失業保険が出る為ニート期間がまた訪れます。






2度目の訓練とニート期間


とはいえ私はすぐに働きたくて、「ちょっと実務経験できたし就活有利ちゃうんか!?」とまた色々応募してみるも惨敗。失業保険も終わりそうになる頃、あることに気づきます。

「もしやまだスキルが足りないのでは?」と。

そう思った私はこんな田舎(許してくれ)じゃなく都心の最新の技術を身につければいいのでは!と東京の訓練校に通うことを決めました。
なんと上限があるものの交通費が支給されるということで安心して通うことができる!ありがたい制度ですね。

そうして面接を受け合格。2度目の職業訓練校生活をスタートさせました。
今考えるとよく栃木から東京まで通う人間合格させたな……と思うのですが、合格していなかったら今の私は居ないのでね。感謝感謝。

片道約2〜3時間。平日5〜6時に家を出る生活が幕を開けました😂ひぃひぃ言いながら通い、勉強しながらクラスメイト(?)とも仲良くなり和気藹々と日々を過ごしておりました。
体感やっぱり都心の方が色々整ってるなぁって感じで本当に人や先生との出会いも含めて通えて良かったなぁと心から思っています。

訓練校時のパイセン



そんな感じで楽しく真面目に半年フルで通って、コロナで仕事が減った中毎日毎日求人チェックと応募を繰り返して、応募書類の添削とかを先生が親身になってしてくれた結果、前回よりもすんなりデザイナーとして就職が決まったのでした!!🥳🥳
先生もだいぶ出来の悪い私のことを気にかけて下さっていて決まった時は自分のことのように喜んでくれて、いい報告できて良かった〜!!と一安心していました。


少しの空白期間とデザイナー(2社目)と上京


そうして決まったのは東京の会社で、それを機に私はずっと憧れていた一人暮らしをすることに決めました。

そして、就職時期が半年くらい先になることもあって、訓練が終わって、そのあとの空白期間は栃木でアルバイトをしながらデザイナーとして知識を蓄えたり、引越し資金を貯めたりしていました。

そうして2ヶ月くらいが経った時に、また音楽がやりたいなと思うようになりました。
都心ならいい感じのアマチュアオーケストラとか、ブラスバンドとかあるかも!と探している時に、ふと目に入ったのが歌手のオーディション情報でした。

これまで少し興味があったものの、歌手だとビジュアルも考慮されるんだから私じゃ無理じゃない?と受ける前から諦めていたため見たことがなかったのですが、この時にオーディションサイトを色々みる中でこの時に私の中で一つの気持ちが芽生えました。

「もう年齢も年齢になってきて、ここから先はどんどん募集対象に入らなくなっていく。周りはフリーランスになったり留学したり色々と活躍してるのにずっと音楽がやりたくて頑張ってきた私はここで音楽を仕事にしたい気持ちを完全に諦めてこの先会社員として暮らすんか?それで本当に私は自分の人生に納得できるのか?」


今まで色々と挫折を経験してきた中で、結局何度嫌になって投げ出しても、結局好きでやりたくて、嫌いになることや手放すことができなくて、ずるずるとここまできて、もう無理かもという気持ちと、ずっと夢だったのにな、という気持ちがありました。
なにより西川貴教さんを好きになってから密かな夢として、同じステージに立って、アーティストとして対等な立場で初めましてをしたいという気持ちがずっとありました。

もう年齢も若くないし、ここを逃したら2度と挑戦すらできないかもしれない。
経験も自信も全くないけれど、やらずにずっと後悔して生きるより、私はここでやって、たとえダメだったとしても挑戦した私を誇って生きたいな、と思いました。

こうして急にシフトチェンジした私は、オーディションサイトを舐めるように見ることになります。丁度この時コロナ禍真っ最中。オーディションも少なく、対面での審査もそんなになかったのかな?送ってください方式が多く、人前で何かをやることと面接が大嫌いな私はちょっと安心しました。こんなんでよく人前に出て何かやるアーティストになろうと思いましたよね。音楽がやりたくて好きすぎてその為ならその恥は我慢できるんですね。


本邦初公開☆書類で使った写真


そんなこんなで、初めてで何もわからないままとりあえず年齢的に応募できて、歌うことができるところと歌の審査があるとこ!と思い色々探して片っ端から応募しました。
ビジュアルに本当に自信がなく絶対そこで落ちるだろうと思っていたら意外にも何件か合格通知が来て、やったー!と思うとともにどこにするかの選定がはじまりました。

大前提もう就職が決まっており平日は動けない。それが許されるところで、話した感じよさげなところ!と思って絞っていき、みなさんご存知、bash the limitとして私は初めて芸能活動の一歩を踏み出すことになります。

その頃



そうして事務所に所属して練習やらをしつつ、バイトをして残りの空白期間を終え、途中最愛の祖母がコロナにより亡くなり、深い悲しみの中引っ越しをすることになります。
物件が決まると引越し業社を使わずに一人で栃木から往復で荷物を運んで引越し作業を終わらせました。今考えるとだいぶすごいな、私。

そうして一人暮らしをスタートさせて、仕事も始まり、バシュリミもデビュー!新生活は大変順調な滑り出しを迎えました。


まだ保存してあったの奇跡だよな



……しかしながらなんでもうまくいくものではありませんね、ライブにより私がコロナ陽性になり、メンバーと一緒にいたので皆確か危なくて、なのにライブに出そうとしていたのでそれはヤバすぎるし、その他にもちょっとどうなん?みたいなことが多々あり、メンバー間で色々話してこれどうなんですか?というものを何個か問い詰めてみたら面倒に感じたのかあーはいはいみんな契約解除でってなり(???)はにゃ〜〜〜〜????となりながら我々5人は放り出されることになりました。



その後解散からソロになるまで


そうして私は絶賛コロナ感染中で瀕死の中大変なことになって勘弁してくれよ〜〜〜〜と思っていたところ、メンバーの一人がフリーでみんなで活動したいと言ったことによりその方針で動くことになっていきます。ここで1人受けたいオーディションがある、と抜けて4人になり我々だけでどうするよ?となっていたところメンバーの子のツテで相談に乗ってくれたのが、現わたくしの提携マネージャー兼プロデューサーである小野寺さん。

色々話してがんばってこー!ってなったのも束の間、メンバーの一人が「なんかプロデューサーごと事務所に来ないかって!」と新たな話を持ってきて、大混乱になりながらじゃあとりあえず話聞いて……所属してみよか……となるのですが…………………

また…………なんか……問題が起こり散らかし、ここまでくると逆に引きが悪すぎてすごいな我々……とある意味感心しながら、みんなもやる気がなくなっちゃったり気持ちが変わったりで結局再開することなく解散することになります。

顔死にすぎワロリンヌ


この間仕事も私はだいぶ大変で、コロナの後遺症がずいぶん長引き、ブレインフォグ的な、頭に霧がかかったような症状だったり、記憶力の低下、そして身体のだるさがあまりにもひどく中々起き上がれない等々日常生活にだいぶ支障のある暮らしをしていました。
そして会社のストレスチェックにもひっかかり、産業医面談のち紹介して頂いた心療内科に通い、「鬱とADHDの可能性がありますね」と言われて通院治療、そしてどん底になり休職を余儀なくされることになります。

そんな色んな意味でどん底にいる中、それを知らない人たちからはなんやかんや言われ、頑張りが足りないとか、もっとちゃんとしなよとか、うるせぇっ!出来てたら苦労せんわっっ!!となるようなこともあり、本当に精神的にも参っていたし、折角かなりの勇気を振り絞って一歩踏み出したのに、その結果がこれなの?というとても虚しく悔しい気持ちでいっぱいになりました。

そんな中小野寺さんがメンバー一人一人の話を聞いてくれて、人見知りな私はこんな話をしたところで「お前には無理だ」と笑われるんじゃないかなとかすごく色々怖かったけれど、でもこんなに勇気を出して頑張ったのにここで終わりたくないという気持ちが勝って、色々と相談をしたところ、「じゃあ一人でやってみる?」と手を差し伸べてくれて、正直一人になるのが死ぬほど怖くて不安だったけど、それ以上にここで終わる方が嫌だ!と思ってお世話になることにしました。


ソロになって初ステージ


そうしてもう3年?こうして皆さんの知るクリエイティブオタクシンガー、佐藤和泉として元気に活動するに至っています。

ちなみによく言われますが佐藤和泉は本名ではなく、私の信仰している土方歳三さまのお姉さま、のぶさんが嫁いだ義兄にあたる佐藤彦五郎さまの「佐藤」と、歳三様の愛刀である和泉守兼定の「和泉」から拝借して名前とさせて頂いております。
故にオタクから見れば「こ、こいつ……だいぶ安直な名前を………」と思われていそうで詳しい方に名乗るのがちょっと恥ずかしいです。



半生を振り返ってみて


なんかいつの間にか反省振り返りnoteになってるんですが、こいつ大体同じこと繰り返しててウケんな〜と振り返ってみて思いますね。
それと私は本当に運が良くて、特に人の運があまりにもありすぎている。

困った時や、悩んだ時に手を差し伸べてくれたり、道を示してくれたり手助けしてくれる方の存在が必ず居て、それはとても素晴らしい財産だなと思います。
友人知人、恩師等々、関わってくださる全ての方に本当に深く感謝を。こんなポンコツ人間を見捨てないでいてくれてありがとうございます。笑


私の人生はまだまだ続きますし、音楽活動もまだまだ続けていきます。
笑われるかもしれない夢も、いつか笑われない夢になるかもしれない。そして叶えられるかもしれない。
そう信じて、私はこれからも頑張って走り続けていきたいなと思っています。

いつも応援してくださっている皆様。
私はソロ活動を始めた時に、集客等々あまりにも自分に力が無さすぎて本当に嫌になりました。
歌もそこまでだし、ビジュアルも抜きん出ているわけでもない。しかもコミュニケーションが苦手。それは興味を持たれなくて当たり前だと理解しています。
それでもやっぱりしんどくて、ファンがいる周りの人たちと私は何が違うんだろうって見たり研究したり自分なりに速度は遅いけれど試行錯誤してこの3年頑張ってきました。

そうして、殆どは共演者の方々や主にゆいぴーや愛さんのファンの方々が私のことを知ってくださり、私まで一緒に応援してくださるようになって、また違うところからも私を知ってくれたり、興味を持ってくださる方が少しずつだけど増えてきて、なんか、私が今までやってきて無駄かもしれないと思ったことや、努力は少しは報われたのかもなと思えるようになりました。

私は昔から自分のことが大嫌いでした。やると決めたことなのに何度も挫折して嫌になって放り出したり周りに迷惑ばかりかけたり。そんな自分が嫌で、何度か未遂をしたこともあります。希死概念だって今も静かに大きくなる時を待っている。
けれど、どうにか自分を好きになりたくて、認められたくて、生きていてもいいんだって、そこにいてもいいんだって思いたくて、唯一私が大好きで、何度諦めても諦めきれなくて、嫌いになれなくて手放せなくて大切な音楽をやっている私でいたくて。その私を私は好きになりたくて、そしてみんなにも好きになって欲しくて、未練がましくこうして活動を続けています。

このnoteを読んで、少しでも興味を持ってくれたり、好きになってくれたら嬉しいなと思うとともに、私の表現する音楽を好きになってもらえることを願っています。

そして、応援してくれている皆様が誇れるようなアーティストになって、自慢できるような、広めたくなるような人間になれるように2025年も走り続けてまいりますので、どうぞ2025年も宜しくお願い致します。



再びの宣伝コーナー


デザインわたしです

はい。というわけで1/13(月・祝)は1日中秋葉原Galaxyさんにてライブがあります!
11:20-14:45がゆなさん生誕ライブ、そして18:00からは天翔る音夜!


きてくれるなら何度だって宣伝をする

こちらはわたくしの歌とオーボエ、両方楽しめるライブとなっております。また初の生バンド+ヴィオラをバックに歌うライブで私も今からドキドキが止まりません!

現地に来れない方は2週間アーカイブ付きの配信もある予定なので、ぜひそちらをご購入頂きましてご覧頂きたいなと思っています!




おわりに


こんなに長々としたnoteを最後まで読んでいただきましてありがとうございます。
佐藤和泉の解像度、上がりましたでしょうか?
是非和泉国の民になってくれると嬉しいです。ファンネームはいず民です。宜しくお願いします。


それでは、良いお年を。

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佐藤和泉
サポートしてくださると佐藤が泣き咽びながら喜びの舞を踊ります。