見出し画像

「特別でありたい自分」を刺し殺す

この記事は「自己認識の旅」みたいなつもりで書いているので、自分語りが多くなってしまっています。もちろんこのタイトルに興味のある人は読んでいただけると大変嬉しいのですが、途中気持ち悪くなったりしたらすぐに読むのをやめてください。


世界の中心はどこにあるのか

ぼくら人間は、母親の胎内からすっぽんぽんの状態で出てきたときに人生というものが始まると言われている。この世に"誕生"したときから、なにかしらの事務的な登録がなされ、"誕生日"というものが設けられ、人生が始まるとされている。

しかし、実際には、というより感覚的には、いわゆる物心というものがつき、この世を少しずつ認識し始めるあたりが、人生の始まりなのかとも思う。それが4歳のときなのか、6歳のときなのか、はたまた8歳のときなのかは人によって違うだろうし明確な境界線は存在しない。じゃあ誕生日(厳密には生年月日)って何の意味があるんだろう?とすら思えてくる。じぶんが産まれた日のことなんか、1ミリも覚えてないんだから。

"物心"と言われるものがついたとき、人(幼児)は「じぶんが世界の中心だ」と考える傾向にあると言われている。たしかに「じぶんが世界の中心だ」と勘違いしてしまうのは感覚的に分かる気がする。小さい頃は"この世"と言われるものに対する認識の範囲が狭かったり認識の程度が弱かったりするので、じぶんが動けば世界も動く、みたいな感覚になるのだろう。じぶんが遊んでいる世界が世界のすべてであり、じぶんの欲求が世界で1番大事なものだという感覚だ。

しかし人は大人に近づくにつれ、少しずつではあるが、「世界というものはじぶんの身の回りにあるものだけではない」ということ、「じぶんとは別の人間がいて各々の人間に感情や思考が備わっている」ということに気づき始める。それがいわゆる「大人への階段」と言われるもののひとつなのだろう。

なんも変わってない

では、「じぶんが世界の中心だ」という勘違いを完全に消失させることはできたのだろうか。

ぼくは、ぼくという人間がこの勘違いを完全に消失させることに成功していた、と最近まで思っていた。たしかに地球という惑星が「人間中心社会」で動いてはいるものの、ぼくという人間は70億人のうちの1人であり、ぼくという人間が世界に与える影響というものはパイ全体のうちのカスみたいなものであるという認識はあった。今もある。

しかし、25歳のぼくが今までのじぶんの思考や言動を振り返ってみたところ、どうやらぼくには「じぶんが世界の中心だ」と思いたい気持ちを諦めきれていない部分があるようだ。もう少し言うと、ぼくは、ぼくという人間のことを「特別な人間」として見続けていたいようなのである。

サッカーが上手いとか、難しい本が読めるとか、面白い文章が書けるとか、なんでもいいんだけど、とにかく「特別でありたい」という気持ちを捨てることができずに"おっさん"になってしまったようだ。

小学生のころ、ぼくは、同じ学校内では運動も勉強も学年でトップのほうに居続けられるような「特別」な人間だった。いや、厳密には「じぶんは特別な人間だ」と思いこんでいた。思いたかった。思うことでじぶんの存在意義みたいなものを見出したかった。特別家庭環境が悪いところで育ったとか、そういう感じではなかったけど、「じぶんは特別」にしがみ付くことで「生きる」ということをやっていた。

中学生になると、早くも自分自身の限界を感じ始めた。小学生のころは、サッカーで地区選抜に選ばれたり、学校の代表として(出場は断ったけど)市民オリンピック選手に選ばれたりすることがあって、なんとなく「じぶんは特別だ」と勘違いできる機会があった。しかし中学に上がると、小学生のころ以上に周りの人間も運動や勉強をある程度鍛錬するようになったり、競ったり比較したりする相手の数が増えたりして、じぶんがじぶんのやったことで目立つという機会が激減した。「じぶんは特別ではない」という事実を眼前に叩きつけられ、困惑した。

本来、そういった事実から学ぶのだろう。じぶんは凡庸な人間であり、だからこそ何か価値を生みたいのであれば、謙虚にやっていくしかないということを。そしてそれが「成長」というものだろう。

しかし、ぼくは「じぶんは特別」であることに存在意義を見出してしまっていた身だったので、どうしても諦めきれなかった。諦めることが怖かった。じぶんを高めるなんてものは大義名分で、本当は他人を打ち負かすためだけに、サッカーや勉強に取り組んでいた気がする。

といったことを、中学だけでなく、高校、大学と上がったあとも同じようなことを繰り返していた。「特別でありたい」という気持ちが不毛なものであると表面的には分かっているつもりでも、深層心理ではそういった気持ちを諦めることができず、定まらない目標や願望に翻弄されていた。

「特別でありたい」のような自尊心を守るための欲求ではなく、心底スポーツを楽しみたいとか、もっと世界を知りたいとか、基盤の揺らがない欲求を持っている人にとっては、おそらく目標も願望も自然と定まるものだろう。

そして逆説的ではあるが、スポーツ、学問、会社、政治など、あらゆる枠組みにおいて何かを成し遂げたり価値を生んだりするような「特別な人間」となるのは、「特別でありたい」というような自己防衛的な欲求を持つ人間ではなく、尖った能力と圧倒的物量をこなせる狂気を併せ持つ人間だろう。

しかも「特別でありたい」という欲求は、特別でないじぶんを特別に見ようというバイアスがかかるため、俯瞰的にじぶんを見る能力を奪う。ゆえに、無能で凡庸なじぶんを「特別なことができる人間」だと勘違いしてしまうということが起こる。

ぼくは凡庸な人間である。サッカーを10年以上やっていたけど結局そんなに強くない公立高校のギリギリ試合に出させてもらえる程度のプレイヤーで終わった。勉強も自習浪人までしたのに結局は中堅私立大学の文系学部に進学し何の学問にも没頭することもなくサークルとバイトに明け暮れる「the現代日本マジョリティ大学生」をするだけで、大学生時代を終えた。そして新卒で就職したけども、じぶんの「無能さ」から目を背けたまま新卒入社からたった半年で退職した。このように、僕という人間は無能で凡庸なうえに勤勉さすらないどうしようもない「無の人間」である。

にもかかわらず、「じぶんは特別な人間だ」と思い込むことで、「無」から何かを生み出せると最近まで思っていた。フリーランスエンジニアになるとか、起業家になるとか、インフルエンサーになるとかいった、妄想と自尊心だけを膨らませたどうしようもないクソ野郎になっていた。大変痛々しい話だ。

もう終わりにしよう。そして始めよう。

「特別でありたい」という何も生まない欲求は捨て去りたい。特別な人間になること、特別な人間であることを諦めたい。そういった自己防衛的なじぶんを刺し殺したい。

もちろんそういったじぶんを愛でる人生があってもいいと思う。でも、それは現実を生きているというよりは幻の世界を生きているような気がする。じぶんでじぶんに無限月読をかけているような感じがある。いやひょっとすると、今までの僕はそういった無限月読のような幻術にかかっていたのかもしれない。であれば、さっさとその術を解かなければ。はやく目覚めるためにも、今すぐに「特別でありたい自分」を刺し殺す。目の前の現実をじぶんの足で歩み始める。ただそれだけでいい。やるべきことはそれだけ。あとはなんだっていい。

里芋です。