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おちょやんの、ゆるしと花籠と。

最終回直前の真夜中に、書いています。

思い返してみれば、「おちょやん」に出てくる人たちはみんなどこかが「ダメ」だった。
酒と博打に溺れて貧乏で、子どもたちを学校に行かせることもできない父、テルヲ。テルヲに連れてこられて、すぐに千代を奉公へと追い出す継母の栗子。ヤクザに拾われて、久しぶりに会った姉を騙そうとする弟のヨシヲ。
そんな家族を持つ主人公の千代だって、やたらと周りの世話を焼きたがり、それがいい方向に出れば親切な優しい人なんだけれど、時々度がすぎて、お節介でうるさい、人との距離をとれない人にもなってしまう。
その千代が出会う人々も、完璧ではなく、何かしら失敗や後悔を抱えている。
岡安のおかみさんも旦さんさえも、みつえちゃんも。

そして、一平も。

千代と一平。結婚前から、お似合いだけれどなんだか不安を感じる組み合わせだった。
「親に愛されなかった孤独」という同じ心の穴を持っている二人が抱き合うのは、色恋の仕草ではなく、さみしい子ども同士が、お互いを抱きしめあうことでやっと温もりを逃がさないようにしてるようなものに見えた。
そして二人とも、心の中で泣いている子どもな自分をなぐさめるかわりに、身近な弱い誰かを助けようとする癖がある。
千代はその気持ちを誰彼かまわず(前述した通り、やりすぎなくらいに)世話を焼くことで解消している。
一平にとってその相手はずっと「かわいそうなひとりぼっちの千代」だったけれど(彼が千代を見つめる時の慈愛に満ちた目!)、いつしか彼女は女優として自信をつけ、彼に守られる必要がないくらいに、とても強くなっていく。
彼女が強くなると同時に、かつての千代と同じくらいひとりぼっちで弱々しい灯子が、弱いものを守ることで精神安定したい一平の前に現れる。このタイミングの悪さ。
そしてさらに、灯子よりもっと弱くて、小さくて、一平がほしくて守りたくてたまらなかったもの、子どもが現れてしまう。
この子とその母を守れば、かつての、父に放っておかれ、母に見捨てられた自分を守れる。二人を捨てたら、父母と同じことをしてしまう。


…あー、もう、この道しかなかったなあ、一平にとっては。こうして書いてみるとよくわかる。朝ドラ史上最悪の夫だけど、千代ちゃんの弱さが彼と惹かれ合い、千代ちゃんの強さが彼を遠ざけた。もう、これ以外二人にはどうしようもなかった。

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こんなふうに、とにかくおちょやんの登場人物は誰も彼も「ダメ」で「しょーもない」のだ。ヒロインも、ヒロインの元夫も、父も、継母も。
そして、彼らのしたことを別にゆるさなくていいよ、と言ってくれるドラマでもあった。ひどいことはひどいと思っていていいよ、と。親なんだから死ぬ前に仲直りしたら、かわいそうじゃないの、云々とか、なくていいよ、と。

ただし、「ひどいこと」はゆるさないんだけど、「ひどいひとが存在する」ことをゆるしてくれるドラマでもある。

おとーちゃんのしたことはひどい、ゆるさなくていい。でもあんなはちゃめちゃな人がいることを、ゆるそう。一平はひどい、クズだ。でも、あれはあれでしかたない。
みんなきっとどこかがダメなのは、おんなじだ。ヒロインであっても、ヒロインの父であっても、夫であっても、テレビを見ている私も、あなたも。

ひどいことをしたひどいひとのひとりだったはずの栗子さんは、たくさんのいいことをした花籠のひととして再登場する。彼女の存在をゆるさなかったら、見えないまま終わるものが、受け取れなかったものが、たくさんあっただろう。
ひどいことと、ひどいひとは、違うのだ。
この朝ドラでは、誰もがそこにいることをゆるされていた。誰にも、やさしいドラマだった。



心をゆさぶられ続けた半年が終わる。
どんな舞台が待っているのか…最後の幕があがるのを、楽しみにしています。




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