書く理由みたいなもの
文章をまとめるのが苦手だ。
常に頭の中で自分と自分が対話していて、書きたいと思うことがふつふつと湧き出てはくるのだけど、終わりが見えない。「これについて書いてみよう!」と思い 書き(キーボードを打ち)始めてみるものの、書きたいところまで書ききると「どうやって終わらせよう。まとめなきゃ」という思考になり、説教じみた文章になったりなにか金言を残そうとしたりする。オチ、というものが苦手なのかもしれない。
それでも脳内に文字が言葉が文章が溢れてくる。脳内でそれらを終わらせない、不恰好でもいいから残そうと(本気で)思い始めた2022年であった。
小さい頃から活字を読むのは苦じゃないし、本の虫といえるほど読んではいないけれど、どちらかといえば「本を読む側」には入ると思う。
美しい文章が好きだ。
そう思うから書けないときがある。書いても世の中に発信するなんて、と躊躇うときがある。美しさの定義がきちんとあるわけではないけれど、このオチのない自分の文章が許せない。
ただ、最近じぶんが過去に綴った文章に何度か助けられたことで少しその思いが変わってきた。
「文章」とは違うが、作詞した2つの曲においても書き上げた時に「できた!」という満足感は得られていない。これでいいのかな、ここ少しハマりが悪いかもしれないな、周りくどいな、短絡的過ぎるな。時間があれば永遠に書き直しをするのではと思うほど提出時は「これがベストかわからない」状態になっている。けれどレコーディングされライブで歌い、時間が経つにつれて「ベスト」だと心から思うえるようになったし、本当に自分からこの言葉たちが生まれたのか?当時のわたしどうした?よくやったなあ。と思えるようになる。
Twitterにときたま連ねる心の奥の本音のような140文字も、インスタのストーリーも、自分が書いたのかあとなんとなく嬉しくなる時がある。
昨日、5年前にとある映画の感想をインタビュー記事として執筆したものが出てきて、読んだ。映画を見るときのきっかけは?という問いに対して「邦画はキャストでチェックすることが多いです。そのひとの芝居がすきだと、その映像に流れる空気感を愛することができるので。」と答えていた。
「映像に流れる空気感」、今も映画を見た時に好みかそうでないかの嗅覚が働くぼんやりとした部分である。それを5年前のじぶんはハッキリと言語化していたことに驚いた。
年数が経てど書いたのは自分自身・本人であるので納得しやすい言葉選びなことは否めないけれど、「なんだこれ」と思わずにむしろ感心できたことが嬉しかった。
このインタビュー(?)に答えるための記事を書いたときのことはかなり鮮明に覚えていて、文章をまとめる力のなさ・語彙力のなさに辟易しながら悩みに悩んで提出したのだ。今になって読み返して見るとそんな当時の自信のなさは漂っていない。
だから、いま、残そうと思った。
昔も今も自分の文章に魅力は感じられないけれど、残しておいてよかったと思えたいくつかの経験から、残しておいた方がいいと思った。未来の自分へ、というと恥ずかしいけれど。
きっと5年前の記事を「愛があるのならそれを信じていたいです」と締めくくったわたしもなんか恥ずかしいなと思っていたはずだから。