①わが子がダウン症だった(宣告編)
令和5年8月某日、我が家の第三子が産声をあげた。
体重2300gの小さめに産まれた男児は、分娩直後すぐさまNICU(新生児集中治療室)に入院することになった。
朝6時頃の出来事だった。
私は上の子2人の面倒を見ないといけないので、出産に立ち会うことは出来ず、赤ちゃんと初対面したのは昼前くらいだったと思う。
生後数時間の赤ちゃんは保育器に入れられていた。
象の鼻を機械化したみたいな呼吸器が装着され、点滴用の管が細い腕に刺されていた。
見ているだけで痛々しくて、可愛いよりも可哀想という気持ちが先行したのを覚えている。
けれど、産まれてきてくれて嬉しかったし、この子が無事に育ってくれることを心から願った。
主治医の説明では、赤ちゃんの自発呼吸が弱いため呼吸器で補助し、胎外環境に順応するため点滴が必要とのことだった。
そして、処置を施す限りは命に関わることはないと聞き、少し安堵した。
このまま状態が安定し、ある程度大きくなれば無事に退院できるらしい。
三日後、両親揃って医師から説明を受けてほしいと連絡があった。
今後の処置の計画についてだろうと思っていた。
約束の時間に病院に行くと、NICUの一室に通された。
テーブルにはNICUのセンター長と主治医、壁際の椅子に三人の看護師が座っていた。
この時点で、物々しい感じがして何かあるんだろうと察するものはあった。
そして、センター長が口を開いた。
まずは赤ちゃんの今の状態について。
胎外に少しずつ順応してきたこと。
早いうちにに呼吸器が取れる可能性があること。
他に大きな疾患は見当たらないこと。
つまり、状況は良くなってきているということだった。次に、赤ちゃんの特徴について。
目の高さに比べて耳の位置が低いこと。
首の後ろの肉付きが多いこと。
目が吊り上がり気味で離れていること。
なで肩で胸が細いこと。
全体に筋肉が低緊張であること。
「この様な特徴から、お子さんはダウン症である可能性が極めて高いです」
淀みなくきっぱりとセンター長は言葉にした。
少しも想像していなかった宣告だった。
私は「わかりました」と返答したと思う。でも、何も分かってないのが本当で、反射的に出た言葉にすぎなかった。
突然告げられた事実をすぐに受容できるほどの大風呂敷は持ち合わせていない。
それに、現実感が無かった。
その事実は、どれだけ調整してもフォーカスできない被写体みたいだった。
納得も実感もできなくて、ピンぼけした事実をただ眺めているだけの、いわば呆然という状態だったと思う。
その後の話はほとんど上の空だった。
とにかく、医師の言うことに対して「分かりました」と答えて、その場をスムーズに終わらせた。
説明の後、夫婦で赤ちゃんを見に行った。
確かに言われてみれば、ダウン症の特徴的な顔つきに見える。
私は「可愛いな」と呟いた。妻と二人で可愛い可愛いと保育器に手をつっこんで赤ちゃんの身体を撫でた。
この可愛いという言葉は自分を納得させるための言葉でもあった。
絶対に受け入れなければならない定めなら、可愛いと思いこむ以外に道がないからだ。
酷くドライに思えるが、ある種の暗示が必要な程に、自分にとって重い出来事だった。多分妻も同じ感覚でいたんじゃないかと思う。
帰り際、一人の看護師さんが声をかけてくれた。
「大丈夫ですか?」
私は「大丈夫です」と答えた。
受け入れる覚悟を決めたからだ。
いや、受け入れざるを得ない現実を見捨てられるほど悪くなれない、という方が正しいかもしれない。
ロビーに降り、待たせていた子ども達と子守役の母と落ち合った。
帰りの車中で母は赤ちゃんの様子を聞いてきた。
私は先ほど受けた説明を伝えた。
母は「そうか、命に関わることじゃなくてよかった」と言った。
私は何も返事をしなかった。正直言って「よかった」のか分からなかったからだ。
こうして、私の人生を変える宣告の日は幕を閉じたのだった。
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近々この続きとなる「葛藤編」を書きます。
ちなみに上の子は4歳と2歳。妻の入院中はちょうどお盆休みに重なり、朝から晩までワンオペ育児中の出来事でした。妻が居てくれる有り難さが身に染みます。
読んでいただきありがとうございました。
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