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人間関係も心地よさ。
何もされてないけど、誰も何も悪くないけど、お話を聞いてるだけで自分をざわつかせてくる人とか出会ったことないだろうか。苦手な人というのか・・・第一印象で感じることはよくあって、第一印象の大切さを学んでいる。それでもまぁ人生の中でちらほらいる。自分の中では「この人は合わないかもなー」って思う人はそれきり、別に。でも「〇〇さんと気が合うと思うなー」とか「最終的にめっちゃ仲良くなってそう」とか言われることもあるが大体がそうなることはまあない。関わらないようにしているから。
いっときは、ざわつかせたりもやつかせてくる人は自分にないものを持っていたり自分が羨ましいと思っていたり、似たもの同士だったりするからなんか嫌だなぁと思っても成長につながる。最初だけ嫌なだけだから突き放すのはよくないと言われたこともあった。だから、頑張った。時には神経すり減らして頑張った
でもやっぱり苦手な人にはあまり近づきたくないのが本音だし、愛想笑いしてほっぺた痛くするのも疲れるわけ。
若い時はさ、それでも最後には仲良くなるって思い込んで頑張っていたこともあった。顔引き攣ってるし、話題も続かないし。それにやっぱり言いたいこと我慢してるのはしんどい。はぁ?って思うことははぁ?って顔になってるし、きっと、いや違うんでは?って言いたくて仕方ないことを隠して笑うのしんどいよね。性格の問題もあるかもで、OL時代はなんや上司やらなんやらもあったしそれはそれと思っていたけど、結局はきっとそう言うのも疲れて、自分のやりたいことに走って、自分のやりたい仕事に就くこともできた。よく考えたら、そう言う理由の見えないモヤモヤみたいなのはさほどなかった気がするなぁ。と。
とりあえずよ、歳を重ねると、その時間すらもったいないなぁって思えてくる。特にプライベート。モヤモヤの種類が違うというか、やりたいことがあってのモヤモヤと、なんかよくわからんけど第一印象からしんどい人に対するモヤモヤって種類が違うと思う。前者は「自分が考えさせられる」という感覚。否定的なこととか言ってることがわからなかったりすることもあっても「それはこういうことなのか?」「こういう風にしたらどうなるのか?」と頭の中で回らせて考えるためにモヤモヤする。でも同時に発見もあるし、しんどいけど耐えられるしんどさ。後者はモヤモヤを耐える目的がわからない。他人の言う「性格が合う」「仲良くなれると思う」って根拠なんだ?だし、よくわからないこの人に変に気を遣っている証拠が愛想笑いだし、話も入ってこない。仲良くなれると思うってだけで、私が全然仲良くなるつもりがないなら不快に感じるだけでこの時間に意味があるのか?モヤモヤのためにこの方に会う意味はあるのか?と考えた結果、手放してもいい人間関係じゃないかと思う。まだ、我慢して笑うよりも我慢せずに笑える人といる方がいい人生の時間を過ごすことではないのかと考えるようになっている。だってさ、よくわからないのに愛想笑いで話を合わせて「あー疲れた」って思う時間とゲラゲラ笑って満たされて「あー疲れた」って思う時間どっちがいい?自分の人生なんだから周りから色々言われて時間を使うより、自分のために自分が思う時間を過ごしたいと思えるようになっている。
きっと、モヤモヤするには何かあって、自分の成長につながるかもしれない。けど、もやつくってことをまだ自分がそこまで成長していないし、結局それは自分の問題なだけでその人には関係ない。関係ないからこそ、自分に無理をして付き合いを続けることを選ぶよりも関係ないからこそそっと去る方を選ぶ。勝手に1人で無理してるんだけなんだし。もしももしもその人が自分にとって出会いたい人ならば必要なタイミングで必要な形でまた会えるんじゃないのかって。無理して仲良くなりに行く必要も無理して会いに行く必要も笑顔を作る必要も今はそのタイミングではないだけ。自分が心地よく楽しく過ごせる時間の方を大切にしていきたい。
人間関係ってむずいし、悩まないことってない。考え方はみんなそれぞれのように、自分の人生の時間、どう過ごすかは人それぞれ、私は私が心地よくない人間関係は手放してもいいよってことなのかなと私なりのルールが見えてきました。