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伊勢路7〜峠について思うこと

2020年1月19日(日)
最大の難所、八鬼峠を越える日がきた。

昨日の馬越峠でやられてしまい、石畳の峠越えに対してすっかり嫌気がさしていた私にパーソナルトレーナーさんからラインが入っていた。「体力蓄えて、気持ちを高めていきましょう」。そうかぁ、私、もう気持ちの時点で負けていたんだな。

難しいことに取り組むとき、嫌だ嫌だと思いながら始めるのと、よっしゃやったるで〜、みたいな感じで取り組むのとでは雲泥の差がある。

会社員の頃は朝起きるのが、ほぼ100%「嫌だ」と思っていた。嫌々はやがて「起きねばならない」と言うプレッシャーになり、最後の頃には過呼吸になったりもした。だから今でも目覚ましをかけるのが嫌いなのだけど、最近ようやく、自分の感情の整理とコントロールの仕方を覚え、朝起きたいと思えるようになってきた。

難しいと思うときこそ前向きな気持ちが大事、聞き慣れた言葉だけど、今日初めてこの言葉の意味を体感したように思う。

八鬼峠はやはり他の峠とはちょっと違っていた。とてもじゃない、2本の脚だけでは太刀打ちできない。ストックをフルに使いまるで自分が4つ脚の生物になったように急な石畳を登ってゆく。息が上がりようも大きく、立ち止まって大きく呼吸を入れる動きの繰り返し。

誰もいない山の中、ハァハァという自分の呼吸だけがしていて、何となくそれがうるさく感じたので、静かに息だけに集中したら、頸動脈がドクドクともの凄い音を立てているのが聞こえた。心臓、肺、筋肉、骨・・、体内の声が聞こえてくる生々しい姿の自分。

峠の殆どは深い山の中を越える道である。誰もいなくて怖くないかとか、迷うのではないかと思ってたけど、峠の方が指標がしっかりあって、迷うことはほとんどない。むしろ町中の方が迷う。

そして峠を越えるというのは、アドベンチャーやアウトドア活動ではない。どんな急な峠でも、先人がそこを通るために意図を持って石を運び積み上げて作っ通った道なのだ。

だから丁度いいと感じるころで曲がりがあったり、急な石畳の後は平地を少し織り交ぜてあったりと、あちこちに人の息づかいを感じる。独りなんだけど独りじゃない。時空を越えたさまざまな思いが私の中に流れ込んでくる。

八鬼峠には地蔵尊と呼ばれるお地蔵さんの形をした指標が曲がりごとにある。昔は盗賊やオオカミが出て、文字とおり命がけで越える峠だったそうだ。行き倒れの碑もいくつかある。人間が作った峠だけど、人間の力だけでは越えられない確かな何かがある。そしてそれは、今も昔も変わらないままだった。

ちなみに、峠にも色々あって、ずっと登って一気に下るみたいな感じもあれば、割とすぐに峠に着くけれどその後もだらだらとアップダウンが続くタイプもある。個人的は前者の方が気が楽だったな。

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