僕と学天即~ほとんど奥田、時々四条~
構成作家・放送作家・漫才作家の里村です。
M-1グランプリが終わり数日たちましたが、毎日1回は見直しています。あれから「漫才じゃない」議論なんてのも起こっていましたが、そんなにみんな「漫才」を求めてたんだなあと思うと、あのコンビを決勝で見てみたかったとさらに思うようになりました。学天即です。
芸人としての初舞台がM-1という「M-1の申し子」。そんな漫才に生きてきた彼らが、M-1の決勝に一度も出ることなくラストイヤーを迎えてしまったというのは、同じく2018年ラストイヤーのプラス・マイナスが敗者復活でミキに敗れた時くらい残念でした。
僕が学天即を初めて見たのは、M-1グランプリ2005の二回戦。彼らの人生2度目の舞台です。まだ芸人だった僕は「大脇里村ゼミナール」というコンビで活動しており、前年準決勝まで進出していたために(芸歴2年コンビ歴1年目で。凄いでしょ)、シード組で二回戦からの出場でした。もちろん二回戦なんか余裕と思っていた僕らが香盤表を見てみると、前には見たことが無いアマチュアの名前が書かれてました。ジャージとネルシャツが衣装で、いかにもアマチュアといった風体。漫才が始まると手を後ろに組み、お互いの距離も離れている。残念ながら僕らの引き立て役になるだろうと思っていましたが、ネタが始まると桃太郎をテーマにした漫才で何度も爆笑を起こしていました。それが学天即です。もちろん合格していました。ちなみに僕らはややウケで何とか通りました。
その後、僕らは三回戦でもややウケを叩き出してしまい、二年連続準決勝進出とはなりませんでした(当時は準々決勝がありませんでした)。しかしホームページで結果を見ると、学天即は合格していました。人生4度目の舞台がNGKになるわけです。そして、彼らは準決勝で桃太郎のネタを捨てて、「天龍源一郎の葬式」というトリッキーなネタをして敗退します。なにしてんねん!(ちなみに一回戦も別の面接をテーマにしたネタをやっており、アマチュアなのに3本ネタを作ってました。凄いな!)。その後、敗者復活戦では桃太郎のネタをしていましたが復活ならず。こうして謎のコンビ、学天即の快進撃は終わりました。
話は変わり、僕はこの当時、ウエストランドがいうところの「復讐劇」に燃えていました。前年のM-1準決勝効果でbaseよしもとメンバーになったのですが、客票が伸びずバトルライブで負けてあえなく2か月で陥落。M-1準決勝に行ったネタですらスベリ、周りの今は消えたクソつまらないキャーキャー芸人どもが流行りのワードや芸能人を出すだけで笑いを取っているのを見て、笑いが分からなくなっていました。そこで僕は「復讐劇」に出ることにしました。
自分でインディーズライブを立ち上げ、そこにbaseよしもとの客には評価されていない本当に面白いやつたちを集めて、月2回ワッハ上方というbaseよしもとが入ったビルの上にある演芸場でネタを磨きました。今思うと、銀シャリ、スーパーマラドーナ、バイク川崎バイク、2700、すゑひろがりず、ななまがり、さらば青春の光、バンビーノ、インディアンス、霜降り明星、コロコロチキチキペッパーズ、ミキ、さや香…挙げればキリがないくらいのメンバーが巣立っていきました。これがなぜ復讐劇かと言うと、このメンバーで一気にbaseよしもとメンバーに上がってbaseを乗っ取り、クソ芸人の居場所を無くして駆逐していこうと考えたのです(今思うとヤベェ発想ですね)。結果このクーデターは成功し、メンバーがほとんど僕のインディーズライブ出身となりました。そしてメンバーが変われば客も変わり、僕のネタもウケるようになりメンバーから落ちることは無くなりました。
僕は自身がメンバーに定着してからも、裏でこのライブを運営していました。このライブからメンバーがどんどん出るので、NSCから「唯一出てもいいインディーズライブ」というよく分からん免罪符もいただいていました。なぜ続けていたかというと、さらにbaseでの地盤を盤石にするためです。そんな時に、何色にも染まっていない学天即を見つけた僕は、絶対にこのライブに引き入れようと思いました。しかし、オーディションにも出ていない純粋なアマチュアにどうやってコンタクトを取ったらいいのか、M-1事務局に連絡先聞くのもなあと思ってた矢先、学天即が「新人お笑い尼崎大賞」というアマチュアの賞レースの出演者一覧に載っているのを発見しました。
僕は尼崎大賞当日、愛車の黄緑色のプレセア(珍色懐車)に乗り、和歌山から下道で3時間かけて学天即に会いにいきました。楽屋に行くとM-1二回戦ぶりの学天即がいたので話しかけようとすると、体を大の字にして前に立ちふさがる男が現れました。同じくインディーズライブを立ち上げていた謎の男Kです。芸人にコネのない単なる素人の彼が主催するライブはアマチュアが大量に出ているライブだったので、僕と同様学天即をスカウトしに来たのでしょう。彼は両手を一杯に広げ笑みを浮かべながらこう言いました。「学天即との交渉権は我々にありますぞ」。そのワードセンスに失笑してしまいましたが、どうも僕が来る前にすでに学天即をライブに誘っていたようです。僕が誘った時には時すでに遅し、先に誘ってくれたライブに出ると断られてしまいました。僕は連絡先を教えて、また3時間かけて和歌山に帰ることにしました。
それから2か月後、見知らぬ番号から電話がかかってきました。奥田でした。僕と話がしたいということで電話をしてくれたようで、なぜM-1に出たのか、なぜ尼崎大賞に出たのかなどの話をしました。M-1は本当に遊び程度で出たようで、M-1が終わればもう漫才はやらないつもりだったそうです。しかし一度爆笑の快感を知ってしまい、お互い漫才を続けたいが言い出せないところに、地元宝塚の近くで尼崎大賞があるのを知ってエントリーしたそうです。話しているうちに、突如奥田が切り出してきました。「里村さん。僕が言うのもなんですが、あのライブは正しいんですか?」。聞くと、M-1準決勝に行った学天即がKに誘われたライブでは2か月続いて客票8位で、しかも芸人のカキタレみたいな女子高生アマチュアコンビと2か月連続同率だったそうです(順位よりこっちに怒ってた)。同じく当時客票が取れなかった僕は「あのライブは間違ってる」と、好きな子を今の彼氏と別れさせるような行動に出ました。そして翌月から学天即は僕のライブに出ることになりました。ちなみに後から聞いたのですが、僕のライブに出てくれなかった理由としてライブの名前が「笑いのシンポジウム」という怪しさ満点だったからだそうです。逆に出る理由となったのが、実は奥田はKのライブに出ている2か月間もこのライブにお忍びで来ていて、銀シャリを見て「知らない芸人でもこんな面白い人がいるんだ!」と感動したからだそうです。ええ話ですね。
それから学天即は僕のライブに出ることになるのですが、なぜか頑なに吉本のオーディションを1年間受けませんでした。奥田はKのライブでの順位にショックを受けつつも、まだ自分たちにはネタや経験値が足りないことは受け止めており、まず基礎を固めきるまではオーディションに受かってもすぐにメンバーから落ちて悪い印象しか残さないからという、至極冷静な判断によるものでした。そして満を持して学天即はオーディションを受けて、確か3回目で合格したと思います。
そしてこの辺りから、奥田を含む数人でルームシェアをはじめました。ルームシェアと言っても、県外の実家からbaseに通っていた人がライブ終わり飲んで終電を逃した時に泊まれる用の部屋で、10人くらいが出入りしていました。そのメンバーは銀シャリ橋本、学天即奥田、スーパーマラドーナ田中、祇園櫻井、吉田たちこうへいなど、タイトルホルダーを多く輩出しており、お笑い版「トキワ荘」と呼んでいました。その中でも僕と奥田はほぼ寝泊まりしており、ライブの無い日は毎日三国志をしながら三文字の武将を延々と言い合うという謎の遊びをしていました(兀突骨が出てきたときは大笑いしました。知らない人スミマセン)。
また、学天即がM-1に出たきっかけを改めて振り返ったりもしました。昔、電話でしゃべった時には言ってませんでしたが、四条と二人でM-1を見ていると敗者復活の会場が映り、出演者の名前が50音順に流れた時に「敗者復活に出てるてことは準決勝まで行ったってことやんな?こんな変な名前の知らんやつでも準決勝行けるなら、俺らでも行けるんちゃうん?」と思って翌年出場したら、本当に準決勝まで行ったそうです(だいたいこういう奴らは一回戦でトラウマになるくらいスベるんですが)。そして、奥田が「50音の初めの方で、長い名前だった」というその変な名前の知らん奴が「大脇里村ゼミナール」だったという奇跡もありました。
学天即がこの辺りから、劇場のバトルライブで4連続1位を取るなど快進撃を続ける中、僕は解散し作家に転向。学天即を裏方として支えるようになりました。しかしその一方で、M-1グランプリでの学天即は2005年以降三回戦で敗れ続けました。M-1が一旦ラストとなった2010年には、当時としては珍しい毎月単独なども行いネタを作り続けるも三回戦敗退。M-1の申し子が、一転M-1に勝てなくなってしまいました。
しかし学天即に転機が訪れます。M-1が終わった翌年から始まった「THE MANZAI」です。2010年の単独で磨いたネタがここで実を結び、手を前で組むことも知らなかったアマチュアがついにTHE MANZAI2011の決勝に進出しました。この時は国民ワラテン58点というとんでもない点数が出てしまうのですが、これで認知されたこともありそこから関西の賞レースの常連となっていきます。2013年にはNHK新人演芸大賞、2014年には上方漫才大賞新人賞、2015年には上方漫才大賞奨励賞とytv漫才新人賞をそれぞれ受賞。その波に乗り、THE MANZAIも2013と2014で再び決勝に進出。特に2014年はサーキット1位通過という快挙。奥田が言う「賞レースの旬」はまさにこの時にありました。
そして、この旬な時にM-1グランプリ2015が復活するという吉報が。もちろん学天即は準決勝まで勝ち進み、僕も彼らも必ず決勝に行くものだと思っていました。スタッフで入っていた僕はありがたいことに東京での準決勝を見ることができました。しかし残酷なことに、その時には学天即の「旬」は終わっており、結果準決勝敗退となりました。
それから成績は下降の一途をたどり、ついに昨年2019で三回戦敗退の憂き目に遭います。NGKで一番笑いを取る若手漫才師は学天即なのに。10分の漫才をさせたら一番ウケるのに。競技化するM-1の壁が立ちはだかりました。
そして迎えたラストイヤーの2020年。これまで毎月や隔月のペースで行っていた単独ライブはコロナの影響もあるとはいえ全く行われず、M-1の予選が始まりました。そこで学天即が行ったのは、昨年までに作った寄席でウケるネタをブラッシュアップした漫才でした。15年目でたどり着いた学天即の漫才の境地、M-1用のネタではなく、普段自分たちがやっている漫才を4分に詰め込む。結果、ラストイヤー組で唯一準決勝まで進んだが敗退。決勝を見た感じ「旬」に負けてしまった感じがしました。
そして迎えたM-1当日、本当のラストチャンス「敗者復活戦」。ネタは準決勝から変更してのサプライズパーティーネタ。しかも後半にNGKで必ず拍手を巻き起こすハモリネタまで入れる仕様。ツカミの花田優一ネタもウケて、終わった瞬間に上位は間違い無いと分かる出来でした。しかし結果は4位敗退。ウケでは絶対に負けていなかった「旬」のぺこぱより下の順位でした。こうして彼らのM-1に始まったM-1人生は幕を閉じました。
しかし、学天即は「賞レースの旬」は過ぎたかも知れないけど、「漫才師の旬」はまだまだこれからです。銀シャリの橋本が「M-1を優勝して、賞レースの呪縛から解き放たれたらのびのび漫才できるようになった」とこないだ会った時に言っていました。同様にこれから学天即には、のびのびとした第二の漫才師人生を突き進んで欲しいなと思います。
※あと「時々四条」とタイトルに付けたのに全く出てきませんでした。彼の印象は、会った当初は丸刈りやったなあということぐらいです(ヘッダーの写真です)。
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