障害を考える
「明らかに人と交われる気がしない。一線を感じる自分はいったい何者なのか。(「発達障害者当事者研究」綾屋紗月 熊谷晋一郎)」
障害には大きく分けて知的障害・精神障害・身体障害と分けられます。
この言葉は、知的障害にあたる自閉症スペクトラムの中のアスペルガー症候群と診断された女性の言葉です。
この女性がアスペルガー症候群と診断されたのは、成人し働きに出た後でした。目に見えない障害であるため、どこでどのように障害が生じるのかは人と人との社会の間の問題となります。
とくに自閉症スペクトラムにおいては、他人との社会的なかかわり合いに問題を示すというコミュニケーション障害が第一に挙げられますが、そもそもコミュニケーションにおける障害とは、二者のあいだに生じるすれ違いであり、その原因を一方に帰することはできないものであります。
どんな人も常に独特のコミュニケーション方法で人と接しているとういことは言えると思います。独特のコミュニケーションのぶつかり合いのなかで、障害を感じるか感じないかの差が生じ、場の空気が読めない、人の表情が読み取れないといった方を障害者と読んでいるのです。
このとき、障害者にとっての障害とは何なのでしょうか。本人の脳の機能不全とともに、コミュニケーションの対象である他人も障害であり、障害物となって大きく立ちはだかっているように感じます。
また、挨拶程度、親和目的、計画目的などコミュニケーション先の目的によってもその障害は常に変化するものであると考えます。
こういった場合、身体障害者へ物理的なバリアフリーがなされるように、知的障害者へのバリアフリーはどう実現されるのでしょうか。
「たとえ目に見えなくとも、障害をもっていない人間はこの世にひとりもいないし、その障害を私たちは気づかずに誰かにケアされている。(「あなたは私の手になれますか」小山内美智子)」
この言葉を書いた著者は本の中で、自分の鈍感を「障害」としてとらえ自分の障害に気づくことでケアの大切さを知ることができるといいます。
自分の鈍感とは様々に考えて、身体的にも知的にも精神的にも人それぞれあると思います。
さらに、いまの社会だからこそ「障害化」したともいえ、「昔だったら関係の発達に少しくらい遅れていても、一徹で変わり者だが腕はひとかどの職人、人付き合いは悪いが海や畑で黙々と働く漁師や農夫とか、生きる場所がたくさんありました。(「こころの本質とは何か」滝川一廣)」というように、社会の変化にも左右されるでしょう。
スウェーデンでは、長年かかって障害者自身が積極的に発言するなかで「障害」の概念がつくられてきました。
「障害とは、各個人に属する特性ではなく、個人とその個人をとりまく環境が接する際に生じる問題である。(「北欧・北米の医療保障システムと障害児医療」杉本健郎)」とされ、たとえ障害を持っていても、環境づくりの中で、その障害をなくす努力はできるし、それを個人ではなく、公的に保障しようというものでした。
誰もがいろんな障害を持っているなかで、わたしたちは見知らぬ人とも出会い、助け合っていかなければいけない“ケア社会”の中にいるのです。
“ケア社会”といった社会が、障害をなくしていくのかもしれません。
(2010)
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