伝えるべきは「やっちゃだめ」ではなく、「まずやってみろ」。
こんばんは。佐藤です。
社会生活の中で「窮屈さ」を感じることが多々あります。何かをやろうとした時に「やってはいけない」と言われることが多いからです。たとえば、何かの企画を考えた時に決裁権を持つ人や仲間と考えている人たちに意見を求めたりすると、それは組織の目的とは沿わない、だとか、本当にできるのか、だとか、まず帰ってくる言葉は「やらない・やれない理由」が多数を占めます。ここで聞きたい言葉は、そんな内容ではなくて「どうやったら実現できるか」です。だから意見を求めているのに。
さて、こんな経験、皆さんも記憶に多々あるのではないでしょうか。このように返されるとどうでしょう。おそらく大半の人がやる気を削がれるのではないかと思います。中には、逆に燃えるという人もいると思います。羨ましいです。
ともすると、こういうシーンは、社会の中であちこちに存在していると思います。教育現場でもそうだし、子育てのシーンにもありそうですよね。何かやりたいことがあるんだけど、なんらかの理由(どちらかといえば大人の側の理由)でストップされてしまうこと。もちろん、そのような対応をするのには理由があるのだと思います。大人のこれまでの経験則からそれをやらせてしまうと何かよくないこと(怪我をしたり、危険な目に遭ったり)が起こる可能性が考えられるから、ストップさせるんですよね。
でも、このように行動を制限された側はどうでしょう。
経験から学ぶということを経ずに、結論だけを伝えられることになります。それは経験が欠如した答えです。同じような問いに直面した時に、それを伝える言葉には信憑性が全くないものになってしまいます。それでは伝わるものも伝わらないのではないでしょうか。
プレイワーカーの皆さんが働く現場には「リスクとハザード」という言葉があります。子どもたちの活動を「どこまで許容するか」の線引きとなる考え方です。ハザードに該当するものは怪我などの危険性が高いためすぐにやめさせる、リスクは怪我の危険性はあるものの、その危険性などを学ぶためにあえて経験をさせるものといった区分がなされています(もちろん、大きな事故にならないようにしっかり見ている状況下においてですよ)。このような中で自由に動くことによって、子どもたちは自分の行動から、どこまではOKでどこからが危険なのかを経験を通して学ぶことができます。
また、行動を制限され続けてしまうと自分の行動に自信が持てなくなり、何をやるにも消極的になってしまいます。また、それがより重くなると、誰かに許可されないと行動できなくなる、なんて状況になりかねません。
これまでまとめてきたこと、これは正直なところ、子どもだけの話ではなく、大人に対しても当てはまると思います。伝えるべきは「◯◯だからやってはいけない」などではなくて、「まずやってみろ」、そして、「その経験から学べ」ではないでしょうか。
他者に迷惑をかけるのはダメですが、そうならないように気をつけつつ、ちょっとくらいヤンチャした方が、その経験から学べることは、はるかに多くなり「生きる力」を養っていくことにつながります。そんな風に若者たちには伝えていきたいなと常々考えています。