【着物コラム】終戦75周年、ファッションという側面から見た戦争の事
こんにちは、着物コーディネーターさとです。
今年は終戦から75周年の節目なので、
例年よりも太平洋戦争・第二次世界大戦のニュースが多いように思います。
アンティーク着物が好きで集めていると、
「戦争」の事を感じる機会が多いです。
実は、私が初めて着たアンティーク着物は、
親戚から譲り受けた銘仙でした。
その銘仙も、所有者(親戚のおばあちゃん)がうら若き乙女だった時に戦時中で、
着るタイミングを逃してしまった銘仙でした。
「あの頃は派手な服着てると非国民って罵られたから…」
と親戚のおばあちゃんが話してくれたのを今も覚えています。
日本に限った話ではないと思いますが、
戦争は社会に大きな影響をもたします。
ファッションは時勢を反映するので、もちろん大きな変化がありますよね。
今日は、私がファッションを通して感じた、
戦争の事を書きたいと思います。
①技術の断絶
今年3月、銀座松屋で開催していた企画展、いせさきメイセン~メイセンは二度死ぬ~を見て、
銘仙の製造技術の衰退についての記事を書きました。
製造が困難になっていた伊勢崎銘仙を復興したにも関わらず、
数年で製造に必要な道具が雲散してしまい、
結果的にまた製造ができなくなってしまった。
だから「二度死ぬ」というちょっと過激なタイトルになっていました。
この一度目の製造困難も、
群馬県伊勢崎市や埼玉県熊谷市を中心とした空襲の被害が大きな原因だと思います。
当時、伊勢崎市は紡績が、熊谷市周辺は桑の栽培・養蚕が盛んでした。
町工場に加え、航空機の工場もあったようです。
(参考 wikipedia:伊勢崎空襲)
当時の紡績業の隆盛を感じられる富岡製糸場は、
現在は観光地化されていて、世界遺産にも登録されていますね。
富岡製糸場は空襲被害を免れ、
戦時中も稼動し続けたのだそうです。
こちらは愛媛県八幡浜市の愛媛蚕種、明治17年創業です。
愛媛県は空襲被害が比較的少なく、
古い工場なども残っています。
空襲で焼失する前の工業施設の雰囲気を感じることができました。
愛媛蚕種は現在も蚕種を製造販売しています。すごいですよね。
こちらは、同じく愛媛県八幡浜市の旧東洋紡績 、
橋も昭和初期に掛けられたそうです。
工場も橋も立派でした。
工業施設がダメージを負えば、
経済的な損失も大きくなりますし、当然生産力も落ちます。
また、空襲のような直接的なダメージだけでなく、
物資の不足による社会への影響も大きかったでしょう。
余談ですが、私は埼玉県南部の出身で、
祖母から「標的が工業施設だった」という話を聞きました。
工業施設に爆弾を落とした飛行機が付近の主要駅に寄り、
武装していない民間人を狙撃した話も度々聞きました。
②戦争から生まれたファッション
一方で、戦争がなければ流行しなかったファッションも存在します。
アンティークの男児の着物でたまに見かけるのが、
飛行機や、戦地である南国の植物、
パラシュートなどの図案です。
収集する愛好家もいると聞きますが、
これらを子供に着せることの意味を考察する機会は少ないかもしれません。
特定非営利活動法人NPO Kimonoアーカイブのウェブサイト
Kimono archiveから少々ご紹介させていただきます。
https://www.kimono-archive.com/Pages/only_picture?version_detail=2&id=6826&standalone=1
https://www.kimono-archive.com/Pages/only_picture?version_detail=2&id=6946&standalone=1
ファッショナブルで可愛らしく、
洗練されたデザインだと思いませんか?
これを着た当時の子供達や親御さんがどんな気持ちだったのか、
私には分かりません。
ただ、こういった柄の着物を着用している写真は
私はあまり見かけないので、
単に珍しい柄として生産されていた可能性もあります。
こういった着物の存在から、社会情勢が垣間見えますよね。
「戦争に行くこと」=「かっこいい」「誇らしい」
という価値観が定着していなければ生まれない図案ですから。
このような図案の着物を子供に着せる・生産される未来がまた来ない事を、
私は切に願います。
また、刺繍の質も戦争を境に質がぐっと落ちます。
「ペンテ」と呼ばれる手書きの帯も、
刺繍の糸が調達できないために生み出されたと聞いたことがありますが、
これは立ち話程度の事なので、
今のところ確証はありません。
洋服で言えば、
トレンチコートも元々は第一次世界大戦のイギリスの軍服ですし、
第二次世界大戦前のアメリカでもミリタリーファッションが流行したようです。
③野良着の「もんぺ」と戦争の服の「もんぺ」
もんぺ=戦時中の服 のイメージがありませんか?
そういう方がきっとすごく多いと思います。
もんぺは元々は作業着ですが、
リアルな作業着として認識していない年代の人は
「戦中の女性の服」をイメージすると思います。
実物を見たことがほぼ無い上に、
戦争のイメージを見せられるたびに登場しますからね。
「女性の和服は戦中の衣服としてふさわしくない」として、
もんぺが国民服に採用されました。
質素なもんぺがよしとされた背景には、
華やかな服は批判の対象だった背景もあります。
長期戦による物資不足が懸念され、
「欲しがりません勝つまでは」等のスローガンを掲げ、
「ぜいたくは敵!」と国民を煽っていましたからね。
また、当時の日本最大級の婦人団体で、
慈善活動・社会活動を目的としていた
「愛国婦人会」が、制服としてもんぺを採用しました。
この団体の発起人の1人、下田歌子は、
女学生の制服として行灯袴を開発した人物でもあります。
ファッション面での影響力も結構あったのではないでしょうか?
アニメ「この世界の片隅に」でも似たような描写がありますが、
少しでも華やかなものを着たい女性達が、
手持ちの着物をもんぺにリメイクするのも定番だったようですね。
私の祖母くらいの世代の女性だとこれもすごくリアルだったようで、
「ド派手な着物でもんぺ作って、練り歩いてやったわい!わっはっは!」
的な武勇伝を何回か聞いたことがあります。笑
戦後の日本では生活様式の急速な西洋化が進みます。
結果として、
普段着として普及していた絣の着物の需要は減少します。
現在では久留米絣などが有名ですが、
普段着にするには中々の高級品です。
戦時中のもんぺのイメージがもんぺの最終形になってしまったのも
仕方の無いことなのかもしれません。
でも、作業着のもんぺってすごく牧歌的で可愛いんですよ。
今年のお正月に夫の実家に帰省したときに、
近所の神社の掃除をしてきました。笑
戦時中のもんぺはこのように帯の上に着用せず、
ズボンのように服の上に履いていたようです。
もんぺによる思想と姿形の紐付けは、
社会という枠組みの中でファッションを政策として利用していた、
と解釈する事もできますよね。
もんぺを履かない=愛国心が足りないいう事ですね。
冒頭の親戚のおばあちゃんの話に戻りますが、
「派手な服を着ていると批判されるから着られなかった」
という女性が当時は多かったのだと理解できます。
現代の感覚に置き換えると
「無難な服」に該当するのが、もんぺだったのでしょうね。
戦争による文化の断絶
こうして、工業都市は空襲で被害を受け、
戦後の急速な西洋化によって、
ファッションとしての着物は事実上衰退していきます。
その後はフォーマルドレスとして営業展開されていき、
「ハタチの振袖は一生に一度だけ!トクベツ!」
みたいなマーケティングを、
今もずっとやり続けている訳ですね。
結果として、
先述したように絣などの「ガチの」普段着としての着物は、
現代では普及しているとは言いがたい状況です。
これらが何を意味しているかと言うと、
度重なる空襲などの被害+生活様式の西洋化のコンボで、
戦前あった生活様式に伴って発展した特有の工業・手工業はほぼ衰退している
という事だと私は感じています。
これは敗戦国や、
旧帝国主義からの植民地支配を受けた国々に結構共通していると思うのですが、
元々あった文化は戦争や植民地支配がきっかけで、
何がどうしても衰退してしまうんですよね。
もちろん、西洋化や近代化で工業発展し、
経済成長もありました。
戦前に比較したら市民の生活は明らかに向上しています。
誤解を恐れずに言えば
「よかった部分」があったのは事実なのかもしれません。
しかし、文化の消失・断絶という点も含めたら、
敗戦直前に大規模な空襲を行い、
焦土と化した敵国に敗戦を認めさせ、
自国文化に染め上げて復興させた事実を
手放しに良かったとは言いがたいと私は思います。
「負けたんだから当たり前」と言われてしまえばそれまでですが…
たくさんの死者が出て、
たくさんの家財が焼失され、
ズタボロだった日本を、
先人達が一所懸命復興して下さって今の日本があります。
戦争がひとたび起これば、
犠牲になるのは必ず弱者、
すなわち武装をしていない民間人です。
そういう人達の暮らしの営みは、
すなわちその国固有の文化であると私は思います。
戦争ダメ絶対!
の理由の一つに、こういった事も含まれる、
それを私に教えてくれたのは着物でした。
着物に限らず、
戦争がきっかけで消失したり分断されてしまった文化って、
たくさんあると思うんですよね。
「たくさんの死者が出た」
「こんなにひどい事があった」
という文脈で戦争が語られる機会は多いです。
実際とても大事な事ですし、
人命よりも大切な物はないと私も思います。
しかし、せっかくファッションを通してたくさんの事を学んだので、
この機会にこのような記事を書きました。
戦争を経験した祖母が亡くなった後、
私の世代は戦争を実際に経験した人から直接話を聞いた、
最後の世代だという自覚が芽生えました。
戦争の話は暗くて重いです。
私もあんまりしたくないです。
でも、だからこそ、
必ず後世に伝えなければいけない大事な事ですよね。
発信力のあるメディアで特集されるのも大事だと思いますが、
民間の伝承も同じくらい大事だと私は思います。