読書ノート 19 喜べ、幸いなる魂よ

「喜べ、幸いなる魂よ」の時代と舞台
 18世紀後半、フランスではブルボン家が革命により倒され、共和制への移行が図られるという世界史的事件が起きた。本作品は、この事件を目の当たりにした隣国ベルギーのフランドル地方の小都市を舞台にした大河小説である。この小説は背景としてフランドル地方特有の産業と女性共同体「ベギン会」に注目している。
 フランドル地方はベルギーで有数の商業と産業が盛んな地域である。ハプスブルグ家の支配下にありながら、商業も産業も統治も自治が認められ、人びとの暮らしも旧弊に滞るこもなく、市民は進取の気風に富んでいた。北海に臨む国々と結んだハンザ同盟はヨーロッパ北部全域に及び、商人たちの自治を育んだ。また繊維産業も英国で産業革命が興ってほどなくその恩恵に与かり、ベルギーの国富の源泉となった。もちろん特色としては麻糸に強みがあり、南仏リヨンなど絹糸・絹織物とは好対照である。

ベギン会
 もう一つはベギン会の存在で、フランドル地方の特色として挙げられる。ベギン会は外見上は女子修道院と類似のキリスト教施設であるが、修道女を育てる組織ではない。女子修道院が出家した女性の施設であるのに対し、ベギン会は在家の女性のための施設である。男子禁制である点は修道院と同じである。ただし昼間に限り、中庭までは男性も入ることができる。施設内には祈祷を行う礼拝堂のほか貧窮院と施療院を併設する。
 ベギン会の財産管理は市の権限に属するが、高度の自治が認められている。最も重要な居住権については、希望者が所望の区画を買い取ることができる制度となっており、現在の買い取りマンションに近い。ただし居住者は院長や副院長による資産状況やキリスト教への信心などについての審査に合格しなければならない。上述の在家の含意は修道女とは異なり、実家への一時帰宅や途中退出の自由が認められていることである。
 もっとも注目すべきは未亡人や高齢単身者、未婚の母など、社会の中で暮らす女性のシェルター機能を有することであろう。21世紀の現在もこのような救済システムがほしいところである。このような施設がフランドル地方各地に生まれた背景には、女性に対する蔑視(ミソジニー)が強かったことがうかがわれる。

登場人物
 本作品を面白くしている最大の要素は多彩な登場人物たちである。ファン・デール家が7人、マティス家(医師一家)が3人、クヌーデ家が4人、子どもたちが8人、ベギン会が4人、そのほか4人である。これらの人びとの多くは2つの家族ファン・デール家とクヌーデ家に帰属するそれぞれ3世代である。なかでも物語の中心となるのはファン・デール家のヤセネとヤンの二人である。ヤセネはテオと双子で、姉と弟の関係。一方ヤンはファン・デール家が知人から引き取った里子であり、ヤネセよりも1歳年上である。

ヤネセとヤン
 ヤネセは幼い時から才気煥発、好奇心旺盛で、テオもヤンもヤネセに気後れしがちである。ヤネセは10代半ばに、うさぎが盛んに交尾するのに刺激され、ヤンを相手にあらゆる体位と性技を体験し、ヤンを畏怖させる。ヤンはこのとき以来何事にも慎重、受け身となる。一方ヤネセは大胆な振る舞いと積極性が身上となり、留まるところを知らない。
 その関心はヤンとの間に生まれた息子レオの子育てにも、家事・家政にも向かわず、好奇心は男子が大学で専攻する科学、数学、生物学などに赴く。ものした論文は大学教授をも唸らせ、出版業者も女であることを承知でヤンの著者名で出版する。フランドル地方の気風が追い風となったとしても、ヤネセの才智があっての快挙である。
 ヤネセの創意と工夫は机上に留まらない。亜麻糸を原料とする繊維産業の全工程にアイディアを注いで技術の革新をやり遂げる。これは旧い技術や技能を創造的に破壊し、それに代わる新しい技術と産業を作り出すことになった。現在で言えばイノベーションである。しかもこれをベギン会のなかで実現したのである。
 一方のヤンは愛妻家であり、ファン・デール家の大黒柱だった。ヤンへの願望はひたすら自分の内部にとどめ、その情熱を亜麻糸の仲買業と同業者
のネットワークづくりに注ぎ、後年はクヌーデ氏の市長職を引き継いで、一身を捧げた。こんなヤンをヤネセも陰に陽に支えた。数字に弱いヤンに代わって帳簿や報告書の記載内容のチェックは、ヤネセを措いて不可能であった。ヤネセはベギン会に身を寄せながら、実家にも時おり帰り、ヤンとの気の置けない時間を楽しんだ。二人にとって唯一の心配は、ミソジニーに傾斜した一人息子のレオの状況であるが、それでもなんとか彼が生き延びて行くだろうと楽観している。

3世代にわたる大河小説
 ファン・デール家、クヌーデ家を中心に親世代、子世代、孫世代のファミリー・マターが詳細に語られる大河小説。その一つひとつに喜びがあり、悲しみがあり、笑いがあり、涙がある。フラクタル模様のように繰り返されるかと思いきや、予想もつかない新しい模様が現れる。読ませて、聴かせて、五感をくぎ付けにする。フィクションの魔術に翻弄されながら、喜びをかみしめた。細部は一切触れなかった。ぜひこの読書体験を多くの人に味わってほしい。

データ:作者は作家で1962年生まれの小説家・佐藤亜紀。第74回読売文学賞小説賞受賞作品。出版は2022年3月、KADOKAWA、320ページ。
角川書店のレビューサイトに掲載された川本直(文芸評論、ノンフィクション)のレビユー「知を探求する”幸いなる魂”はどこまでも晴れやかだ」(2022年3月2日)、小説家の深緑野分による文庫本巻末の解説「天才でエゴイスト 誰も彼女には手が届かない」も参考になる。


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