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さとー#自己紹介

はじめまして。さとーです。

既にご存じの方もいるかもしれませんが改めて・・・


プロフィール(詳細)

【個人情報】

名前はさとー 1982年生まれの戌年 性別は男

176cm  65kg 血液型はB型

歳を重ねるにあたり・・・

・背は⤵︎
・体重はかろうじて→
・血圧は⤴︎

【平均より上振れていると思われるモノ】

・運動センス
・首の長さ&おでこの広さ
(ここで15cmは稼いでると思われる)
・子どもの数
(参考資料:画像・プロフィール・以下)
・酒量
(非公式)

【SNS】

・2020年12月 38歳にして恐る恐るTwitterの門を叩く
・フォロワーの皆様に恵まれその魅力に気づく
・他SNSはいまだ恐れているのはここだけの話
(Instagram Facebook TikTok等)

【生まれと育ち】

・東京生まれ
・父の転勤により幼稚園年長から宮城県仙台市に
・小学校4年生のときに東京へ戻り現在に至る

【仕事】

・販促資材保管〜発送を主としている会社に勤務(1972年創業)
・社員は約20名 他スタッフ約60名ほど
・アルバイトから始まり現在取締役
・いまもなお現場&トラックを運転することも

【家族】

・写真のとおり
・子どもは4人
・全員男
(年齢はプロフィールに書いたため割愛)

※以上、、、

仕事に。家族に。ごくごくありふれた話ではあるものの。その中で経験したことはなかなか濃いめ。

ので・・・

自己紹介と備忘も兼ねて。

・幼少期の出来事から青年期
・仕事のことや子育てのこと
・これまでの出会いや別れ

こんな事を綴っていけたらと。

ちなみにそこから感じた大切にしていること。

・こんな環境があったらいいな
・こんな情報知りたいな
・こんな人と出会いたいな

を実現するべく、、、

いま行っている活動(実績0...いや微)などをゆるゆると綴っていければと。

いつの日か子ども達が見て。
一緒に語らう日を楽しみにしながら。
包み隠さず洗いざらいリアルな話を・・・
(目指せ!!子ども達開催合コンの数合わせ)

念のため、、、少しは包もうかな。

どうぞよろしくお願いいたします。

幼少期〜小学校

【記憶】

東京で生まれ年長まで暮らしていたものの。小学生まで残り3ヵ月。父の転勤により仙台へ。それまでの記憶は幼稚園の友達にジャイアントスイングで投げ飛ばされ、デッカいたんこぶを作った影響かあまり記憶にない。

何もわからぬまま引っ越しして。家が変わり幼稚園が変わり。あっという間に卒園。このとき記憶に残っているのは父と母の夫婦喧嘩。僕の内容と言うより、、、これは控えよう。いまじゃない。

通った小学校は距離にして1.5kmほど。それでも小学校低学年の感覚ではとても遠い。30分以上は歩いた感覚。いくつもの坂道を越えて。お腹が痛くなったときはまぁ大変。急ぐにしてもそれなりに距離がある。とはいえ絶対に負けられない戦いがそこにはあった。いま思えば僕の運動能力の礎はこの登校で身についたと言っても過言ではない。

【初めての恋】

もう一つ。妻には内緒の話。僕には30年来お付き合いしている方がいる。言ってしまえば幼馴染みだ。いまだに切っても切れない関係。さすがに妻も気づいているかも知れない。

その方とは8歳のときに言い寄られそのままそういった関係に。出来れば関係を絶ちたいものの。向こうからの積極的なアプローチにいまだ体を許してしまっている。今年もまた・・・。

花粉さんへ。あれから長い年月が経ちました。お互いいい大人です。そろそろ関係を解消しませんか?いま僕には妻も子どももいます。

【スポーツ】

小学校1年生から続けていた水泳。東京でも続けることに。スクールが変わったためそのまま選手コースとはいかず・・・みんながプールサイドで体操をするなか熱い視線を浴びながら受けた試験はよき思い出。このときのあの視線がしばし僕を引っ込み思案にしたのは言うまでもない。

そんなこんなで再度選手コースに入るも耳の病気でしばし休むことになり。代わりに何か違うスポーツをやることに。当時の流行りはJリーグ。世間は大盛り上がり。どう考えても一択。にも関わらず僕が選んだのは野球。素直さのかけらもなく、ひねくれていたのはすでにこの頃からのようだ。

このとき水泳、もしくはサッカーを選んでいたら。いま頃僕は、、、オリンピックで金メダルを取り名言を残していた。または心の中の小さな僕が赴くままに名門クラブに入っていたことだろう。

【父と母と弟】

僕には3つ下の弟がいる。しかしながらあまり弟という感覚がない。というのも母親は体が弱くよく入院をしていた。当時自分の不安よりもいかに弟を楽しませるかを考えていた。入院の度に車の窓越しの母親を見て泣きじゃくっていた弟。僕も泣きたかった。そんな気持ちをぐっとこらえていたことはいまも忘れない。

もはや小さなお父さんのつもりだったのかな。楽しい思い出もたくさんあるはずなのに鮮明に覚えているのはこういった記憶ばかり。なぜだろう。わからない。ので・・・父に褒められたくて洗濯を取り込んだとき、シャツに隠れていたミツバチさんに刺されたせいにしよう。ちなみにこのときは褒められるどころか、勝手なことをするなとめちゃくちゃ怒られた。父が子を愛するあまり気が動転し、心配が怒りの表現になってしまったのはいまはわかっているつもり、、、やっぱりこんな記憶だ。

そんな中での美味しい記憶。父が仕事帰りに買ってきてくれた海老チリとチンジャオロース。いろいろ買ってきてくれていたはずなのに。もはやこれしか食べていないんじゃないかというほど。味も大好きだけど。そのときの感情も相まってなのかな。いまでも僕の大好物。

中学校

ここから高校まではひたすら野球の話。中学の野球部を通じて仲良くなった友人。友達の少なかった僕によく声を掛けてくれた。環境がちょこちょこ変わったり、母の体調のこともあったため友達と遊ぶことに慣れていなかった僕。その友人とは気づけば自転車で走り回ったり、バス釣りに行ったり、家に泊まったり。部活以外でもよく遊ぶように。とても楽しかった。そして嬉しかった。僕はいつからか彼のことを親友だと思っていた。

それは3年生のとき突然起こった。友人のお家柄もあり、キャプテンだった僕よりも日頃から発言力が強かった。このときもそうだった。練習でバッティングをやるか、守備をやるかで意見の相違。そのまま言い合いの喧嘩に。次の日。僕はみんなから無視されるように。目すら合わない。少し経ってからわかったのこと『あいつの言うことは聞くな』のお触れが出たとのこと。当然部活にも行かなくなり。しばらくの間、独りの時間を楽しむことに。と言いながら当時は塞ぎ込んでいたな。楽しく話していた友人や部活のメンバー。こんなに変わるのかというほどに。絶対に同じ思いをさせたくない。いまでも心に強く。

僕が部活に戻れたきっかけは小学校から一緒に野球をやっていた別の友人のお母さん。わざわざ家まで来てくれた。『さとーくんいる?』当然僕は出たくない。バレバレの居留守だ。すると友人のお母さんが玄関越しから聞こえるように僕の母へ。『いろいろ聞いたけど。さとーくんは間違ってない。しかも理由なく仲間はずれにするのはよくないこと。○○にもしっかり言ったから明日から部活どうかなと思って』僕はただひたすら泣いていた。それを聞きながら。次の日の朝。その友人が僕の家へ。一緒に登校。ひさびさに野球の荷物を持って。発端となった友人とも話をした。当初のわだかまりはなくなったものの一定の距離感は残ったまま。その後、彼とは元の関係に戻ることはなかった。

最後の大会を終えて。野球部のメンバーで話になるのは高校で野球を続けるか、続けないか。僕の所属していた野球部は弱小。顧問は野球未経験。全部が自己流。僕は迷っていた。そこに追い打ちをかけるような話。小学校のとき同じチームでやっていたセンス溢れる友人。同じ中学に進学するも部活ではやらずにリトルシニアで続けていた。高校野球に向けて、硬球を使って練習や試合をする場所だ。将来を見据えてその道を選択した友人。その友人がすごい選手ばかりと言うのだから相当だ。そんなチームの才能ある先輩方がことごとく高校で通用しなかったとのこと。それを受け、友人は中学で野球をやめる選択。それを聞いた僕。怖じ気づきながらも小さい頃から負けず嫌いな性格。どこに対して生まれた感情かはいまだわらかずも高校で続けることを決意。

高校

ここもひたすら野球の話。春の合宿。何もかもが衝撃だった。野球のレベルが全く違う。中学校時代を考えればそれもそのはず。僕が野球を教わったのは小学生のときが最後だ。逃げだそうかと思ったこと数知れず。それでも1年2年と何とか食らいつき。少しずつ試合にも出られるように。そうすると調子に乗り出す悪いクセ。上手くはなりたい。でも出来れば練習はしたくない。もともと運動が得意な僕はそれでもなんとかなっていた(※自己評価)。ただケガが多かった。しかも要所。疲労骨折も二度三度。試合には出ていたもののレギュラー番号は最後までもらえず。と言いながら、、、その要因はケガではないと思われる。実は練習中に聞こえないだろうと監督の悪口を呟きながらバックホームをしていた。実際監督には聞こえていなかったらしい。ただコーチには聞こえていたとのこと。障子に目あり壁に耳あり。口は災いの元。僕は野球から学んだ。何より呟きの破壊力の凄まじさ。まざまざと。

高校野球の醍醐味の一つ。最後の夏の大会。そのまえの大切な時期。GW合宿。そこで僕はこれまでで一番大きいケガをした。盗塁をしようと踏み出した瞬間、振り返りたくなるほど大きな音。二塁について一歩踏み出した瞬間激痛が。診断は重度の肉離れ。お医者さんから言われたのは大学で続けたいなら夏の大会を諦めなさい。僕はシンプルに思った。この先生は何を言っているのだろう。何のためにここまでやってきたと思っているんだ。僕は若かった。選択肢は一つ。監督とコーチに伝えたのは当然『大丈夫です。』

最後の最後まで監督は信じていなかった。(※呟きによるものと思われる)練習でも試合でも何度も試された。コーチからははっきり言われていた。続けたいなら休んだ方がいい。当然僕の答えは『大丈夫です。』そのとき僕が思っていたこと。歩けなくなってもいい。何より夏の大会に出たい。結果、試合に出ることは出来たものの試合を中に再度激痛が。お医者さんから言われたのはもう元の状態に戻ることはないだろう。その言葉を受け。誤魔化そうとはしたけれど、もう誤魔化すことは出来なかった。僕の野球人生はここで終えた。あのとき休んでいたらいま頃僕は、、、ホームランを打つ度にビッグフライ!サトーサン!と呼ばれていたとかいないとか。ちなみに僕の強みは足と肩だ。打力じゃない。

大学

附属校だっため大学には進学出来た。ただ野球ばかりやってきた僕に何が残っているのだろう。まさに心にポッカリ穴があいたような状態。しばらく何もやる気が起きなかった。抜け殻そのもの。周りはコンパにサークルにととても楽しそうにしている。なんとなく参加しながらもまったく響かず。何をしてもその穴は埋まらなかった。授業を受けては家に帰り、また学校に行く日々。そんな時間をしばらく過ごしていた。

ある日。友人から声がかかった。知り合いが派遣会社を立ち上げたから一緒にやらないかと。他にやることもないため、僕は言われるがままその会社で働くことに。もともとアルバイトで派遣に登録していたから現場に入ることには慣れている。建築現場で荷揚げをしたり、下水道工事の荷物運びだったり。ただそこの派遣先はコールセンターや街中でのブース展開など未経験の内容。少し戸惑ったけど、何もない日々からしたら刺激があった。このときぐらいから少しずつ生活が色づき始めた。色づいたのはそれだけではなく。当初聞いていなかったことに携われることに。営業に。スタッフのマネジメントに。給与計算に。そのとき僕は会社の仕組みを初めて知った。ただただ言われたことをやり、時間を過ごせばお金がもらえる。それだけではない。やったことによる対価があることを。

僕は学業そっちのけで夢中になった。気づけば周りは就職活動の時期。基本的に周りを気にしない僕もさすがに気になり始める。わけもなく、、、すでに就職をしているような状況。そのまま働いてもいいかなと就職活動せず。とは言いながらその会社ではない同じ業種の会社で働いてみたい。時折顔出す僕の中にいるあまのじゃく。その思いは日に日に強く。思ったら動き出してしまう性格。お世話になった御礼を伝え、僕はその会社を辞めた。そのまま求人している派遣会社にひたすら応募した。条件はアルバイトからの正規雇用有り。連絡があった1社目で働くと決めていた。幸いにも最初に連絡があった会社で採用が決まった。仕事の内容は営業補佐。実際には補佐どころかリストを渡されてひたすらテレアポ。営業には自信があったもののこれが全く上手くいかず。世の中そんなに甘くないと痛感。それでもなんとか1社お会いしてくれることに。とても嬉しかったこと。いまもなお鮮明に。

社会人1年目

渡されたリストの裏話。その後、何社かお会い出来たものの毎回なんだか様子が変。それもそのはず。そのリストは出禁、もしくは何かしらミスが生じたため取引が無くなっていた企業の一覧。世の中厳しいなと感じていたものの、それを知ったとき僅かばかり心が軽くなったのを覚えている。それにしてもよく会ってくれたものだ、、、感謝しかない。そもそも・・・アルバイトかつ新人に何も言わずに飛び込ませる。たいしたもんだ。

そんなこんなであっという間に時は過ぎ。会社から正規雇用の話が。まずはやってみようを信条としている僕。ここも一択。とはいかず、、、僕は希望の月給を提示した。知らないとは怖いこと。いま僕は同じことが出来るのだろうか。。。かろうじて受けてもらったものの、同時に会社から提示されたのは目標の売上と粗利の金額。そうと決まればやるのみ。ましてや負けず嫌いな性格。必ずや目標を達成してやろうじゃないか。固く決意した2006年の夏。そのときの用紙はいまでも大切に保管している。

そうして社員となり。早々にまさかの異動。その会社のメイン部署へ。前任が退職するとのこと。退職の理由は上司でもあった社長についていけない。それを聞いた僕はいつものあれが顔を出す。思ったことは一つだけ。面白そう。実際にはそんなことはなく、、、業種もまったく違うものに。内容は販売促進企画とその運営。社員になって1ヶ月半。転職したような感覚になったことを覚えている。

さらに追い打ちをかけたこと。PCはまともに使えない。資料なんて作ったことがない。ExcelだのPowerPointなんて別世界、何のことだかさっぱり。社内(周りはみんな一回り以上年上の方々)で聞いても自分で考えろ、やらずに聞くな(わからなかったといまでも思っている)。間違えては怒られて。ここから怒濤の日々が始まる。

見かねた得意先の担当者の方が懇切丁寧に教えてくれたことはいまでも心から感謝している。それがいまの僕の仕事の礎にも。ちなみにその方は退職してしまったがいまでも飲みに行く仲。ちなみに余談だが、社内にてPCの仕様にも関わらず学歴のせいにされたこと(僕の学歴は知られていない)。社長から振られた仕事に勤しむも。最近忙しそうだね。何がそんなに忙しいの?と社長ご自身から言われたのはよき思い出。

営業部長への憧れ

引き続き忙殺される日々。てっぺん、なる早、明日朝イチでが飛び交う日々。そんな中で行われていた週に一度の営業部全体会議。僕は憧れていた。会議中ひたすら携帯を見ながら難しい顔をしている営業部長に。パーテーション越しに反射して見えるのはパワプロ。頑張ればあのようになれる。僕の新たな目標となった。

しかしながらその気持ちは長くは続かなかった。だんだんと込み上げてくる感情。もう我慢出来ない。そして発動。役員に直談判。部長と僕どちらを取りますか。有耶無耶になったものの僕はスッキリした。やるだけやって辞めてやろう。それからしばらくして。営業部長が本社から営業所長へ栄転の話。さすが僕が憧れていた営業部長。その話を断り退職を選択。同時に営業部長に就任した2013年の夏。

とはいえこれも並大抵のことではなかった。会社全体で約20人の営業部。ちなみに僕が最も若い。一番近くてもほぼ一回り上。ましてや自分の業務も持っていた。俗にいうプレーイングマネジャーだ。業務的にはこのときが一番大変だったかもしれない。資料作成に。営業に。プレゼンテーションに。しかもいただいた仕事を自分で回していた。一人何役やっていたことか。何より時間が足りない。いまだから言えること。得意先に伝えていた担当部署に確認します。どの部署の担当も僕でした。

この頃、社長の案件だった販促物保管〜発送部門の担当者にもなっていた。紹介から紹介という流れに乗って、通常では門前払いをくらうであろう企業との取引も。中には外資系の企業もあった。当然求められるレベルも急激に上がった。何かある度に求められるのは記録。一方、当社は古き良き昭和の雰囲気に包まれて。現場含めて、すべては頭に入っている主義。作業標準書や作業指示書の提出を求められてもそんなものあるわけがない。0からすべてを作りつつ。その間に通常業務をやりながら。部長としては戦略立案に。リサーチに。マネジメントに。それに合わせて役員からのたくさんの指示。体力的にもきつい。時間も有限。何より営業部長とはいえ様々な制限もあった。それでもただただガムシャラに働いた。3ヵ月が過ぎたころ僕はさすがに限界だった。そんなときに出る僕の悪いクセ。再度役員に発動。僕を役員にしてください。そうして2013年の冬、僕は取締役になった。

取締役となり

アルバイトから始まって8年。僕は取締役となった。役員からの指示は0ではないもののほぼない状態に。伴い責任がついてまわるのは当然のこと。結果を出すだけ。結果が出なければそれまで。とことんやってやる。僕は覚悟を決めた。

最初に着手したこと。現場の体制の見直し。営業所長が退職して以降、所長職は空席に。最高責任者は僕だった。毎日いられればいいのだがそうもいかず。苦慮していたことにようやく。僕が抜擢したのは現場にいたパートさん。はっきり言ってしまえば、仕事の能力が高いかと言ったらそうでもない。なぜその方にしたのか。答えは至ってシンプル。一緒にいて居心地がいい。言葉も雰囲気もとても柔らかい。納期に追われ日々ピリピリしている現場。この人しかいない。その旨を伝えるもやる自信がありません。それでも伝えたこと。全部を一人でやる必要はありません。得手不得手を補いながらみんなで環境をつくりましょう。その方にはいまだに営業所長は固辞されているものの、いまや業務の最高責任者にまで。

その後も様々なことが起こった。そのうちの一つエース社員の退職。さすがにこれには頭を悩ませた。仕事は出来る人に集まるもの。気づいたときには属人化していた。まさにその社員以外誰も出来ない状態。それではダメだとわかっていても、忙しさにかまけてなかなか着手出来ず。それも退職の要因の一つと言われたときは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。僕が唯一出来たこと。転職時に推薦状を書いたこと。いまでもその社員と繋がっていることは秘密の話。

とはいえ仕事を止めるわけにはいかない。僕は独断と偏見でまたしても現場にいたパートさんを抜擢した。当然周りからは総スカン。PCは触ったことがある程度。ビジネスメールなんて送ったことがない。敬語も・・・。でも大丈夫だ。この会社には昔そんなヤツがいた。僕がその方に決めた理由。現場で作業していたときの目配りや心配り。PCやらメールやら敬語なんてどうにでもなる。そこから5年。いまや得意先だけではなく周りからも信頼されるほどに。

やりたいことが一つ一つ実現していい流れに。とはいえそんなに上手くはいかないもの。またしてもそれは突然やってきた。大口の取引先契約更新せず。会社の売上の1/3を占めていた取引先だ。その衝撃といったらなかなかのもの。あーでもないこーでもない。色々考えるも結局最後に辿り着く答え。これ以上考えてもしょうがない。いま出来ることを粛々とやろう。契約満了まで当社で出来るすべてのことをやりその日を迎えた。それからしばらくして。物理的に対応が出来なかったため、実現していなかった案件の話を再度いただく。売上にしたら決して大きいものではない。しかしながら状況的には藁にもすがる思い。仕事をいただけるのであれば全力で。これがきっかけとなり、そこから様々な部署をご紹介いただけることに。その規模は契約満了した取引先の売上に追いつくであろうほどに。捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものだ。

再度いい流れを感じ始めた頃。またしても予想だにしなかったこと。コロナ禍。会社の柱の一つであるイベント系はことごとく中止。これもまたなかなかのインパクト。そこに携わっていた方々も仕事がない。とはいえ急に他部署でと言われてもそんな簡単なことでもない。適するであろう配置転換を行うも、それらしくなるまでなんだかんだ2年はかかった。その中で新たな発見も。向いてないかなと思いつつ、人手が欲しかった部署に移った社員。これまでとは打って変わってメキメキと。環境が変わるだけでこれほど変わるものかというほどに。思い込んでいたことを省みつつ。環境の大切さを痛感した出来事。

決して順風満帆ではないながら。人事、配置転換、事業内容の再構築と。その状況に合わせ、可能生を追求しては乗り越えてきた。これから先もたくさんのことが起こるであろう。これからも変わらずにやり続けること。考え得るすべての可能生を追求し、その実現に向けて一つ一つ積み重ねていく。ただただ必死にガムラシャラに。もっと上手なやり方がきっとある。あらゆる可能生を追求するも、、、現時点これがいま僕に出来る最上級。

家族

僕には子どもが4人いる。全員男(9歳・8歳・6歳・3歳)。1家族で4人の子供がいる確率は日本で3.3%との情報もあるとかないとか。我が家はさらに男・男・男・男。

いまでこそなんとか生活出来ているものの、仕事同様決して順風満帆ではなかった。三男が生まれるまでは俗に言うワンオペ。夜は遅く、土日も仕事に行くことも。ひさびさの休みも疲れのあまり休息に。いま思えば家族に対して働く以外、何もしていない。当時それすら考えられなかった。ただただ必死だった。妻と出会ったときは平社員。それまで二人で自由に使えた時間とお金。結婚をして、公私ともに立場が変わり、幸いに子を授かるも目まぐるしい日々。生活含めて何をどうしたらよいか。とにかくすべてにおいて必死だった。そのしわ寄せは当然妻に。そしてついにその日はやってきた。私たち別れましょう。そう思うのも仕方がない。同じ家に住みながら僕はほぼ居ない。既に割り切られていたのかもしれない。僕が決めていたのは家族の生活を守ること。お金だけじゃない。大切なことはもっとある。僕はそれを見失っていた。

結婚前から飼っていた犬ココ(オス)がいた(この時から男・・・)。子が生まれるまでの主役は当然彼。それが突然のライバル出現に。嫉妬している姿。それもまた愛おしく。僕の仕事の状況もあり三男は次男同様、里帰り出産(山口県)を選択。となると家に残るは・・・さすがに難しいだろうとのことで彼も一緒に山口へ。無事出産を終え、すぐに迎えた年末年始。ギリギリまで仕事かつ年始早々仕事のため帰省は見送ることに。だがそれは突然起こった。仕事を納め一息つこうとしたところ、妻からの電話。声にならない声。どれだけ時間が過ぎたのだろう。ようやく聞こえた言葉。ココ死んじゃった。

庭で遊んでいたところ、ふと手を離れ、そのまま道路に飛び出したとのこと。見通しもよく、それほど車が多く走らないその道もそういうときに限って。僕は気づいたら新幹線に乗っていた。そのときの記憶はほぼない。ココと対面して二人で一緒に泣きじゃくった。一緒に散歩をしたこと。じゃれあって遊んだこと。喧嘩もよくした。思い出しては現実に引き戻され。妻は憔悴しきっていた。ただただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。そして僕はこのとき初めて気づいた。当たりまえにあるものが決して当たりまえではないことを。

しばらくして。妻と話し合った。ココのこと。これまでの自分が考えていたこと。またそれを省みたこと。そして伝えた。もう一度チャンスが欲しい。そうして我が家は新たな一歩を踏み出した。このとき僕は学んだ。わかってくれるだろう。なんでわかってくれないんだ。そうじゃない。しっかり伝えること。その大切さを。

その後、四男も生まれ。Twitterを見てくれている方はご存じのとおり。わちゃわちゃながらもなんとか生活している。ちなみに妻とはいまでも喧嘩する。機嫌を伺うこともある。お互い口を利かないことだって。それでも三男が生まれるまえの状況に比べたらかわいいもの。僕は決して忘れない。ココとの日々。別れを。そして約束する。いま目の前にある当たりまえにあるものを大切にすることを。

別れ

ココとの別れが2016年冬。

そこから僕は2018年まで毎年大切な方との別れを経験した。

僕には可愛がってもらっていた協力会社の社長がいた。仕事を対応いただくだけではなく、同じ物流加工業のため、一緒に叶えようとたくさん夢も語った。その他にも僕のやりたいことやその起点となっているコンプレックスの話。社長には三男と同い年のお子さんもいたため、家族ぐるみで遊びに行こうとも。

それもまた突然だった。忙しくなると連絡がつきにくくなる傾向はあったものの、そのときは明らかにおかしい。そんな中、僕の誕生日に届いたLINEの通知。書いてあったのはステージ4。治療が施してもらえなそうだとの文面。その後、会えたのは1回だけ。僕は会った瞬間察した。そのとき話したことはいまでも忘れない。飲みながら話した夢の話や遊びにいく話。いつにするのか。何からやるのか。必ず実現しましょうと二人で盛り上がった。泣きたい気持ちをこらえながら。社長との別れはそれから数日後。LINEの通知から約2週間。2017年の夏。

僕がやりたかったことの一つ。幼なじみと一緒に働くこと。彼は生まれたときから半身不随の障害があった。中学までは一緒だったが高校から別々に。社会人になってから再び会うように。とにかく負けん気が強い彼。飲んでは熱く夢を語りながらも、僕がずっと気がかりだった勤めていた会社の愚痴。学生のときもそうだったけど、社会人になってからも口にしていた差別のことだ。確かに使えるのは片方の手と足ではあった。当然不得手なこともある。それにしてもだ。僕は知っていた。やると決めたことを愚直にやること。誰よりも強い気持ちを持っていたことを。僕は約束した。思いがある方が輝ける環境をつくることを。そしてそこで一緒に働くことを。

少し時間がかかってしまったけれど、多くの方々のお力添えを頂きながら一緒に働ける環境をつくることが出来た。その報告をしようとしたものの、年末も近かったため年明けにしようと。それもまた突然だった。その数日後、共通の友人からの電話。僕はその電話で幼なじみが亡くなったことを知った。持病はないと聞いていたが心臓発作での突然死。またしても僕は大切にしていた方を失った。

さいごに

そのような別れが続き、僕の気持ちはだいぶ揺らいだ。大切な方々と描いた夢。一人では出来ない。諦めようとも思った。でも諦めてしまったらその方々との繋がりが弱いものになってしまいそうな気がした。まったく同じことではないかもしれないがもう揺らぐことはない。大切な方々と描いた夢。そこにあった思い。それをカタチにしたい。たとえどれだけ時間がかかっても。

いま僕が大切にしていること。

・こんな環境があったらいいな
・こんな情報知りたいな
・こんな人と出会いたいな

実現するべく積み重ねていければと。

家族を大切にしながら。
周りにいてくれる方々を大切にしながら。
一つ一つの出会いやいま目の前にあるものに感謝しながら。

いつの日か子ども達と語らう日を楽しみに。

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