震災遺構訪問記~旧・山元町立中浜小学校~
お久しぶりです。お久しぶりというか、noteに書くようなこともなかなか浮かばず、気づいたら前の投稿(?)から11か月が過ぎていたんですね。早い早い。
ということで久々のnoteは、宮城県の山元町にある、東日本大震災の震災遺構を訪問した際のまとめというか、備忘録というか、文章にして残しておきたいな、伝えたいなと思ったので、ここに書き残すこととします。いつものようにお見苦しい駄文にはなるとは思いますがどうかお許しを。
1. はじめに―訪問の経緯
なんで急に関西の人間が東日本大震災の遺構に?と思うかもしれないのですが。
先月くらいに、ふとどこかに旅行したくなり、(紅葉とかの)時期的に、10月末に宮城県かどこかに行きたいなと思ったわけです。仙台とか、松島とか、色々と行きたい場所や、牛タンなど食べたいものがあったということで、宮城遠征に行こうということに。当然東北地方は初めて、いやそれ以上に(北海道を除けば)東京から北に行ったことがなかったということもあったので。
そこでふと思ったのが、宮城県に行くならば、震災遺構を見に行かなければ始まらないということに。またクソ真面目な、と思われるかもしれないですが、個人的には、震災からの復興なしに今の宮城県を楽しみ尽くすことはできないと思ったわけです。私は出身は神戸ということで、1995年の阪神・淡路大震災については散々学校で教育されてきたのですが、なんせ自分が生まれる5年以上前なので全く自分事として感じられませんでした。それに対して、2011年の東日本大震災は、私の中でも鮮明に(テレビの向こう、新聞の上ではありましたが)覚えており、その跡を実際に見て感じ取ることで、その災害を自分事に感じ、将来必ず起こるであろう災害への心の備え、というものを少しばかりしておこう…と。そして、震災から12年半経った「被災地」の様子を五感で感じて、震災からの復興の歩みに思いを馳せ、現地の人々と話をして彼らの想いを汲み取って、元気を取り戻した東北の姿を遠征の中で感じ取ってこれからどこかで活かすことができればな、と思ったわけです。というわけで、ここからは現地を訪問した際の様子を写真とともに振り返り、その時に考えたことを整理してみようと思います。
なんか就活のエントリーシートみたいな感じになっちゃった。今回ののエピソードが良い感じに使えるかもね。
2. 現地の様子
山元町まで車を出すようなほどでもなかったので、仙台から常磐線に乗って最寄り駅の坂元駅まで行き、そこからレンタサイクルを借りて小学校へ向かいました。まずそこで驚いたのは、本当に小学校以外周辺に何もなかったこと。ただ一面に田畑が広がり、その奥を「復興道路」、高規格な道路が通っているだけ。
そしてやってきた中浜小学校。幸い駐車場には車が少なく、静かに見学ができそうです。受付で入館券(¥400)とパンフレット(¥200)を購入し、中に入りました。
校舎に入ったらいきなりこのような凄惨な様子が広がっているのです。少し予習はしていたのである程度はわかっていても、いざ実際現物を見てみると驚きのあまり言葉が出なくなります。これはどのような向きに傾いているからどちらの方向の津波によって流されたのか、あるいはそもそもここは当時はどのような様子だったのだろうか、何が置いてあったのだろうか・・・?と考え続けていました。
このように、12年前に実際に子供たちによって使われていたと思われるようなものも多くはないものいくつかありました。震災当時私は小3、つまりこの小学校に通っていた人々とまさに同世代。自分たちの学び舎が実際に津波によって破壊されていたら・・・?楽しく(?)学んでいた日常が突然跡形もなく奪い取られてしまったら・・・?と考えると、本当に胸が痛くなります。自分は体験していないから、とかいう考えはいよいよ意味をなさなくなってきてしまいます
2階に上がると、被災した教室の展示ももちろんあるのですが、一部が改装されて、校舎完成時から震災発生直前までの町や学校の様子や、震災前後の学校の対応などが展示されていました。ビデオ等も使いながら、震災当時小学校で働いていた人々の話から当時の思いを聞くことはできるのです。数日前に三陸沖であった地震を受けて対応策を協議して、それを子供たちの間でも共有していたこと。校舎は2mほど嵩上げされて建てられたこと。津波の到達時間予測を受けて「垂直避難」を決断したが、奇跡的に避難した全員が無事であったこと―などなど。奇跡に奇跡が重なったともいうことができ、なんとしても子供たちの命を守る、という意気が伝わってきました。でしたがそれ以上に私が印象に残ったものが、下の写真の模型です。
特に注目すべきなのは、中浜小学校周辺。現在は田畑以外何もない場所に、びっしりと住宅やお店が立ち並び、また沿岸には松林もあったそうなのです。それが学校を残して震災ですべて破壊されてしまったということなのです。そして、被災前の町の様子には、住民の思い出がびっしりとマークされていたのです。
大学の前期の地理学の授業で、「場所」とかいう概念について、被災地復興の事例を通して学習したことを思い出して、そのときの授業資料PCで引っ張り出してきました。わからん。これまで人々が生活を営んでいた場所は、被災後に「完全に住めなく」なって完全な更地になり、内陸への移転を余儀なくされた中で、過去がすっかり洗い流されて、そうして地図上からは失われる場所。もうその場所は"存在しない"のに、人生の一舞台であったその場所への愛着。そういった場所の記憶を、記録に落とし込み、地域の集いの場でもあった中浜小学校を活用し、訪れた人をそのジオラマに引き込んで、未来に語り継ぐ。このジオラマにもそういった意味が込められていると考えると、少しくるものがありました。
そして最後にガイドの案内で屋上へ。児童は立ち入れない資材室から伸びる狭い階段を上がると、そこには太平洋の青い海が。
津波襲来時は屋上ギリギリまで水に浸かり、避難してきた90人は屋根裏の狭い倉庫で一夜を明かしました。もちろん暖房なんてなく、コンクリート剥き出しの冷たい床。なんとかして持ってきた毛布を分け合って、「暖かい朝日」を待って。倉庫内は撮影禁止だったので写真で様子を伝えることはできないのですが、12年前のものが散乱した様子がそのまま。当時の様子が思い出されずにはいられません。そこで津波から耐え、暗く寒い一晩を過ごすことに対することに対する恐怖は想像を絶するものでしょう。そのような状況を生き延びた人々には本当に頭が上がらない思いです。
3. 中浜小での「学び」
さて、ここまで現地で思ったことをつらつらと書き連ねてきたわけですが、被災地に実際に赴いて、その遺構を生で見るという体験は、神戸出身の私にとって非常に刺激的なものでもありました。最初のほうにも書いたのですが、なんせ阪神・淡路大震災の遺構は全くと言ってもいいほど残っていないのです。私がなかなか自分事として感じられなかった理由はやはりそこにあるのかと思いました。どうしても実際の様子をイメージするのに困難が生じ、「まさかこの場所が震災の時に大変なことになったなんて」というように、現在の状況があまりに違いすぎていたのです。それに対して中浜小学校(だけに限らず、東北各地に残されている「震災遺構」すべてについて)は、現在の様子をそのままにとどめ、あたかも震災から時が止まったかのように、静かに私たちの心に訴えているのです。あの時の様子を、たとえその地震を自分の身の出来事として体験していなくても、鮮明に描いてほしい。そして、避難行動をめぐる一連の流れなどから、実際に自分がそのような状況下に置かれたときにどう行動するか、周りをどう信頼し、協力し合うか、ぜひとも考えてほしい、と。
数十年以内に、南海トラフの巨大地震がほぼ必ず発生するとされており、そうなるとどこに住んでいようが避けようがありません。これまでたまたま大地震に見舞われることが無かっただけで、旅行先で遭遇するかもわからない。そのような中で求められているのは、(もちろん来ないことに越したことはないのですが)大地震がいつ来ても冷静に、しかし確実に命を守る行動をとることができるようにという心構えなのでしょう。そうして一人でも多くの命が助かるのならば、東日本大震災での1万数千の尊い犠牲も、私たちに大事なことを教えてくれている、そう感じる時が来るのでしょう。考えていることは実にありきたりなのかもしれないけれども、その考える「きっかけ」を与えてくれた中浜小学校には感謝しかありません。
そうして、私は青く果てしない海原に、そっと手を合わせたのでした。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。