日々がトレーニング〜講座「gift」
久しぶりに不快な気持ちが動いたことがあった。
以前だったら、その気持ちを感じながら
その場所で、モヤモヤしながら愛想笑いをしていただろう。
けれど、今回はそれがどうしてもできなかった。
相手に反撃する、ではなく
自分自身に真っ直ぐいたかった。
だから、その場の雰囲気が変わろうが、相手が私のことを
嫌いになろうが、外側のことはどうでもよかった。
ただ、ただ、その時の自分の内側から湧いてきた感情に
素直にいてあげよう
そう感じただけ。
だから、そのための行動をとった。
言葉にしながら、私も正直ドキドキした。
頭から出てくるものじゃなく、
腹の底から湧いてくる言葉や気持ち
「あんたに何がわかる?どれだけ私のことを知ってるの?」
「知らんくせに言うな」
そんな鋭い台詞が腹の底から出てくる。
相手がどんな時間を今まで経験し、痛みや喜びを感じ、ここにいるのか。
それを確認することや尊重することもせず、人を評価したり、判断する。
決めつけるようにいう。私は、そう言うのが大っ嫌いだ。
以前なら、笑って何事もなくやり過ごしただろう。
平和でありたいから、自分の違和感を無視してきた。
相手にも考えがあってのこと。
相手にも理由がある。
そう考えるから、言わないを選んできた。
けれど、確かにそうだけれど
相手を慮る気持ちと同時に、自分の気持ちを大事にしないまま
相手に寄り添うとおかしくなる。
私が過去やってきたことは、それが多い。
だから、フレッシュなうちにその塊を昇華しないから
どんどん溜まっていく。
いつまで経っても なんか知らんけどイラっとするわ、だったり
相手と距離を置きたくなるような
そんな行為に及ぶときもあったりした。
人と争うことを避けるため(平和であろうとするため)に
その場で湧く情動に見ないふりをする「クセ」が
私にはあることに気がついたんだな。
それは、幼い頃に「怒られないようにする」から始まったのかもな、も
思う。
言うことを聞かないと怒られる。
「辛口叩くな!」と怒られる、
すると黙ってしまう。
「サシで叩くよ!」と茶箪笥の上に乗っていた木の物差しで叩かれる、
あの瞬間が怖かったのかもしれない。
こうして書くと、なんてひどい親だ、と思われてしまうかもしれないけど、
昭和の時代、日常茶飯事珍しいことじゃなかっただろうを思う。
親には親が経験してきたことがあり、
その中で精一杯子育てしたり、仕事や、家庭をつくってきたはず。
私は、私の人生の中で、幼い頃の記憶、体験を、大人になってから書き換える作業をずっとやってきたのかもしれないなぁを思う。
講座「gift」では、教えることはしない。
自分の感情や、心が動いたことの奥に
必ずヒントがあるから、それを見つける方法や仕組みを伝えるだけ。
そして、実際にやるのは本人。やらないのも本人。
その人のスピードに合わせて人生を創っていただく。
表面だけで、どんなにいいこと言ってやっていたって
内側にあるものが過去からずっと同じなら
過去を生きているだけになってしまう。
自分ではなかなか気がつかないんだよなぁ…ここ。
気づけないんだよなぁ、一人じゃ。
だから、「gift」を、はじめたのです。
*講座の詳細は、最後に。
見つけた時(気づいた時)がおめでとう!と 宝だから。