法律は安易に使わないこと
法律は、めったやたらに使うことにより、法律の定義や適応範囲や構成要件などがあやふやになってきてしまい、どれがどう適応してどこまでの範囲でどこまで持っていきたいかだ。
だから、気軽にや、安易に法律を使うのならば、おとしどころがわかっていなくてただ単に言っているだけは本当に厄介な人の部類になってしまうだけだ。
何が言いたいかというと、今訴えたくてどうしようもないとき以外は法律の適応範囲や構成要件などをきちっと調べた上でやらなけらば、法律が適応される可能性というのは低い。
さらに、自分の被ったあるいは、被られた被害というのは、感情的になっている時こそ見落としがちになってしまう。高々、金が欲しいからや、恨みに思って陥れたいからなんて言うのは屁理屈でしかないし、罪刑法定主義の本質を知らないのと一緒だ。
罪刑法定主義は、法律で決められたぐらいの刑罰を科すということを謳っているのと変わらない。如何に自分が傲慢でふてぶてしいかということだ。
例えば、本当に自分の財産がとられてしまったや、商売上法に触れてしまったなど、けがをしてしまい病院に行かなければならないぐらい駄目だったとしても、あくまで治療費を補填してもらえるだけだ。
法律を考えるうえで、自分の辞書にある法律が確かなものかどうなのかというのは、あくまで六法全書と適応範囲と構成要件まで調べた上で訴えたほうがいいのだ。
ここまでしたら、あとは警察とどう相談してやっていくかや、あるいは弁護士や検察官たちとどう話し合っていき、どこまでして欲しいのかまでを考えた上で相談するなら間違ってはいないはずだ。
その代わり、その人とは一生関わりあわない覚悟を持つか、一生犬猿の仲でいたいかということも考えなければならない。
自分が頭にきているのは確かだとは思うが、自分のしたことや、自分がどの時点でこの人に悪い事をしたのかや、遡れなかったら無理して訴えるという行為自体しない方が賢明だと考える。
運よくお巡りさんが現場を通って現状を確認できないのだから、遡ることをやめてしまっては、話にならないし、自分の話が嘘と証明されれば、呼ぶなになってしまうからだ。
本当にお巡りさんを呼ぶ必要性があるかないかという前に、暴力でしかわからない人と関わらない方が無難なのではないかと考える。
世の中は常にSNSのブロックアカウントやミュートのようなものでしかないのかもしれないと思う。