【大河ドラマ連動企画 第16話】どうする勝俊(久松(松平)勝俊)
今回は正直ツッコミどころが少なくてつまら…武田氏の人質生活過酷すぎん!?武田の家臣団の子弟、とんでもないところで生活しているな…。アラブの石油王かと思ったらスパルタだったでござる。
ツッコミどころが少ないということは逆説的にストーリーは問題なく面白いということ。発言がいちいちウザい於大の方、徐々にしっかりしてくる家康、そして大河ドラマ史上最強クラスの武田勝頼などキャラが立っている人物はとてもいい味が出ている。完全に私の中の御屋形様像は阿部寛に固定されている。最近はイマジナリー御屋形様が世相を(脳内で)ぶった切っている。
今回はおそらく今回で出演が最後となる久松源三郎勝俊(松平康俊)について扱おうと思う。
久松氏
大名家としての久松氏は源義家の末裔を称しているが、これは前述の通り、松平姓を名乗る際に源氏の末裔と称したほうが都合が良いためと考えられる。久松氏の本姓は菅原氏であり、伝承によると以下の通りである。
菅原道真の孫である菅原久松麿(ひさまつまろ、後に雅規)は昌泰の変に連座し、尾張国知多郡阿久居に流罪となる。その幼名から通称「久松殿」と呼ばれ愛されたようである。時代はくだり南北朝時代に雅規の末裔がこの地を治めることになり、先祖の愛称にちなんで「久松氏」を名乗るようになった。
この話の一番のツッコミどころは菅原雅規は延喜19年(919年)生まれとされ、昌泰の変の時点で影も形もないところなのだが、地名ではなく幼名が名字の由来になる、なんとも珍しい一族である。久松氏は尾張国守護の斯波氏に属する国人領主となるが、斯波氏の没落に伴い織田氏に鞍替えする。リリー・フランキー俊勝の時代には織田信秀に仕えており、近隣の領主と対立しながらも強かに生き延びていた。この俊勝の妻こそ於大の方であり、家康のめんどくさい生母である。於大の方は俊勝との間にも康元、勝俊、定勝の3人の息子を設けている。桶狭間の戦い前後に彼らと面会した家康は異母兄弟の彼らを一門に準じるとし、松平姓を許している。これが久松松平家である。一説には康元と康俊は同い年とされているが、数え年主体のこの時代にこれをやるには出産後即妊娠しないと厳しい。今作の於大の方なら気合で妊娠していそうである。
勝俊の数奇な生涯
かくして松平勝俊となった彼を待っていたのは過酷すぎる運命である。永禄6年(1563年)に彼は家康の命で今川氏真の元に人質として送られる。一説には三河吉田城攻略の際の和睦の条件として酒井忠次の娘と共に送られたとも言われるが、具体的な情報源に当たることができず疑問が残る。一触即発の今川氏との同盟の要石として5年を過ごした勝俊だったが、転機が訪れる。武田信玄の駿河侵攻である。この際に家康と信玄の密約があったと磯田らは指摘しているが、詳細は不明ながら勝俊は武田氏の人質として甲斐に移り住むこととなる。今回の大河ドラマでは例によって話がややこしくなることを嫌いこの辺りをバッサリカット。武田氏との同盟のために派遣された、という形にしている。
そして、2年後の元亀元年(1570年)に勝俊は信玄の元を脱出。雪積もる南アルプスを越えて三河に帰還するがその代償として両足の指を全て失うことになってしまう。苦しいながらも役目を終えて帰還した勝俊に家康は「一文字の刀」「当麻の脇差」を授けてねぎらったという。
その後は足の傷もあり戦場に出ることもなく、久能城を預けられたが、天正十四年(1586年)に遂に34歳の若さで亡くなった。
久松氏のその後
勝俊には嫡子がいなかったが、生母の於大の方の懇願により、水野勝政が養子となり、家は多古藩藩主となる。
兄・康元は母の言いつけを守ったのかどうかは知らないが、多くの娘を他家に嫁がせ、松平一族と諸大名の血縁関係を担当した。関ケ原の戦いでは江戸城留守居役をつとめ、1603年に死去。残念ながらその後改易となったが、旗本として家名は存続する。
弟・定勝も家康の側近として活躍。秀吉から人質として所望される程であったが、死去。子孫は松山藩主となる。ちなみに子孫に松平定知氏がいる。
こうして、久松松平家の三兄弟はいずれも幕末まで家名をつなぐことに成功する。
過酷な運命に翻弄されながらも徳川家に貢献した勝俊。大きな活躍こそしなかったが、彼の一族はその後の江戸時代に家名をつなぐことができたことを思えば良い決断をしたと言えるだろう。