岐阜市の謎②~金華橋と金華橋通りの「ずれ」~

その橋は、ずれていた。

現在の岐阜市街は中央を長良川が流れるブダペスト的市街地を形成している。私の住まいは川南(いわゆる旧市街)にあるが、職場は川北であり毎朝通勤で渋滞に苦しんでいる。
渋滞が起こる原因は明白で、長良川を越える橋が限られているためである。岐阜市内において長良川の南北を結ぶ橋は全部で9本。その中で1本だけやや不自然なかかり方をしている橋が存在している。金華橋である。忠節橋と長良橋の間に位置し岐阜市街地における重要な橋なのだが左岸は丁字路になっておりやや使いづらい構造になっている(とは言え、右折し西進する方向で金華橋通に直通しており駅前までつながっているのでさほど変でもないのだが)。どうしてこのような構造になったのか。

金華橋はいつできたのか

そもそも金華橋通は金華橋につながる通りではない。こういうといきなり矛盾しているように聞こえる。そもそもこの名称が策定されたのは1988(昭和63)年、ぎふ中部未来博に合わせてのことである。それまでは平和通と呼ばれていたし、戦前は軍用道路として「凱旋道路」とも呼ばれていた。戦前の地図ではこの凱旋道路は岐阜県庁・政府施設(現在のメディアコスモス・岐阜市役所の辺り)まで伸びていたが、1961年の航空写真では現在のメディアコスモス北西角のあたりまで延伸している。その後、金華橋の接続道路とつながったことで「金華橋通」へと変化していったのだ。このことからも分かる通り、金華橋は当初は凱旋道路(平和通→金華橋通)への接続を企図して作られた橋ではなかったのである。

1945年にGHQが作成した地図。
1961年の空撮地図。1948年までは残っていた施設が取り壊され、平和通が北にわずかに延伸している。

金華橋はなぜ作られたのか

では、金華橋は何のために設計・架橋されたのか。
金華橋が竣工したのは1964(昭和39年)であり、戦前から存在していた忠節橋・長良橋より遅い。航空地図を確認すると、終戦直後の時点では長良川北部にはまだ市街地が広がっていない。そんな中で震災復興都市計画の一環で本町-早田線が策定されたのは1946(昭和21年)のことである。計画から完成まで随分と時間が経っているように見えるが、これでも当初の予定を1年前倒しにしている。この背景にあるのは長良川右岸地域(私が言うところの「川北」)の発展がある。戦後、それまで僅かな建物(市民病院と刑務所)しかなかった川北地域に岐阜市街地は拡大していく。戦前より企図されていた忠節橋の架替(当時は現在よりやや上流に位置しており、忠節通と直通ではなかった)や1954(昭和29)年の長良橋の架替はこうした市街地の拡大、そしてモータリゼーション化に由来している。
もともと本町地域と早田地域の間には「交通」が存在していたことも金華橋建設を後押しした根拠である。江戸時代より本町地区は長良川水運を活用していた。その渡し場の一つに上ケ門の渡し(上ケ門町→本町9丁目)がある。江戸時代にこのあたりに木戸が存在したのが名前の由来であるが、この上ケ門の渡しからは長良川水運を利用した尾張方面への水運の他、対岸の早田地区への渡し船も運行されていた。金華橋はこの本町-早田間の渡し船の需要を満たす目的でも設置されたといえる。
しかし、ますます今の位置になった意味がわからなくなる。というのもこの上ケ門の渡しが存在していたのは今の金華橋の位置よりも下流。まさに平和通をまっすぐ延伸した先なのである。
インターネットで調べられることはこのくらいになってしまった。そこで私は岐阜市図書館リファレンスサービスも活用してみることにした。
「金華橋が現在の架橋位置になった理由を知りたい」
そうした質問への回答には以下の2つの文献がつけられていた。

岐阜市北部早田、鷺山方面には県立総合運動場、公認野球場などが現にあり、また公団住宅や一般住宅が多く建設されつつあり将来の躍進的発展が約束されている。旧市域と早田方面との連絡には渡船を利用している。
都市計画街路本町早田線、岐阜市本町三丁目同市早田馬場立会長良川筋に金華橋を架橋し、学園、住宅地帯形成に対処することを希望する。

『岐阜市史 史料編 現代』 p.249
昭和24年10月「岐阜市議会会議録」“金華橋の架設についての市議会決議”から要約

長良橋と忠節橋の間に交通上の架橋が絶対に必要であり、川北の将来の発展のためには欠かせないと思い、その時機を待っていた。そうこうしていると、国体開催がだんだん具体化し、しかもその会場は川北に求めなければならん。それには橋が必要だということになり、地の利を得たところで機至れり考えて発案したんだ。

『松尾吾策回顧録』 松尾吾策/著 1980年発行 p.228
「金華橋の建設 川北発展の願いをこめて」から抜粋

上記をもって、「第20回国民体育大会を見据え、当時川北に存在していた県立総合運動場へのアクセスを企図して策定された」という回答をいただいた。残念ながら私が求めていた回答(具体的なルート決定)とはずれていて芯を食っていないが、ここで新たな情報が提示された。

1. もともとは金華橋は本町3丁目-早田馬場間を企図していた。
2. 当時の経緯について松尾吾策氏が記述した資料が存在する。

まず、1. についてだが現在の下新町・本町5丁目 - 早田東町5丁目の筋よりもわずかに東である。場所を合わせると下記のとおりだろうか。

当初はわずかに東だった?

きれいに橋をかけるならばこのような形になる。この場合、長良橋通から直通するため今よりアクセスが良い。これについては1951(昭和26)年の『岐阜市都市計画用途地域街路網図』に建設前の金華橋がすでに記載されているという情報を入手しているため、これを確認すれば良いだろう。これが確認できればもともと平和通への直通を企図していなかったということの証明になる。

次に2.についてである。お恥ずかしながら松尾吾策氏について存じ上げなかったので調べたところ、同氏は1955(昭和30)年から1970(昭和55)年にかけて岐阜市長を勤め上げられた方であった。1932(昭和7)年から1950(昭和25)年には岐阜県庁、1951(昭和26)年から1954(昭和29)年には岐阜市助役を努めており、40年近くにわたり、岐阜県・岐阜市政に関わっていた人物である。
※この方の記録については今回、時間がなくこれ以上深堀りすることができなかった。

いざ、図書館へ

これらの情報をまとめた上で、仕事が早く終わったある夕方。私は岐阜市立図書館を訪れた。
探していた資料の一つはすぐに見つかった。昭和20年7月に作られた「復興区画整理設計書」(『岐阜市史 史料編 現代』、p218)だ。これは先に記載した「岐阜市都市計画用途地域街路網図」よりもさらに6年前に作られた、戦前の資料だ。そこに求めていたものがあった。
金華橋の予定架橋位置だ。そこには私の予想と寸分違わぬ位置に点線で金華橋の草案が存在していた。

1945年7月に作成された「復興区画整理設計書」(『岐阜市史 史料編 現代』、p218 より改変)。
金華小学校西側の道路から直進する橋の予定線が引かれていた。

やはり、金華橋は「凱旋道路」ではなく、本町までの長良通りから分岐するルートで架橋を検討されていたのだ。リファレンスからの資料にもあった昭和24年の市議会決議も見つかった。そして、その次に掲載されていたのが昭和39年10月、金華橋完成直前の岐阜日日新聞の記事だ。ここには架橋位置が「南岸の下新町と北岸の早田古道通り地内」と記載されている。つまり、昭和24年から39年までのどこかの地点で架橋位置が見直されたことになる。ここで着目すべきなのがWikipediaに出てきた「伊勢湾台風を機に計画を見直した」という記載だ。上記の昭和39年の新聞記事には「さる三十五年の一二号台風出水のような…洪水にも大じょうぶ。(原文ママ)」と記載されている。伊勢湾台風は昭和34年の出来事なので、2年連続で長良川流域は水害に苦しめられていたのだろう。

ここで時間が乏しくなった私はそのままリファレンスカウンターを訪れた。前回の話から事情を話すと、職員の方は金華橋の建設に関連した新聞記事をいくつか紹介してくださった。デジタルデータになっている新聞記事を見ていくと1958(昭和34)年8月21日の岐阜タイムズ(現・岐阜新聞)に、取付道路の基本線が決まったという記事が掲載されていた。

つぎに取付道路は…二十日、基本線が決められた。川南側は矢島町から金華小学校西側を通りここから下新町、下大桑町地内を経て長良堤に上る道と平和通りを真北に伸ばした御杉町地内から四ツ屋町を経て堤防に上る道路をY字型に結ぶ。…一方川北は早田馬場地内から南北直線で取付けられ…

岐阜タイムズ市内版1958年8月21日朝刊

ここにある金華小学校とは現在の岐阜小学校である。この時点で西側の平和通りから金華橋へのルートが確立していたことが分かる。しかしこの記述では現在のようなルートなのか、最初に策定されたルートなのかは断定ができない。Y字型、と書いてあるのが気になる。元々のルートに平和通りからのルートが加わる場合、その形は丁字型になるような気がする。一方で川北のルートはやはり金華橋に直結する直線ルートがこの時点でも既定路線となっていたことが分かる。
ちなみにこの時点では川北の区画整理は進んでいないと思われる。3年後の1961(昭和37年)の航空写真では早田周囲は競技場しかなく、一面に不均一な区画の農地が広がっている。

ここで1回目の訪問は時間切れとなってしまう。その経緯についてさらなる調査をリファレンスカウンターの方にお願いし、後ろ髪を引かれる思いで私は図書館を後にした。

そしてわかった、曖昧な結論めいたもの

それからさらに1週間が経過しようという頃、リファレンスカウンターから追加の調査報告が届いた。
昭和24年以降の岐阜市議会記録で現存している昭和27年、および昭和29年以降の記録を確認してくださったようだが、残念ながら建設位置の変更などについての詳細な経緯は記載されていない、というものであった。しかし、添付されていた新聞記事が最後のピースに近しいものであった。

金華橋は川北との交通量が飛躍的に増えたが矢島町、本町、岐阜公園の電車通りカーブが交通を妨げ、これを是正することは困難である。この対策として平和通りから御杉町をへて四ツ屋公園付近で長良堤に上り、対岸の早田へぬける動脈として金華橋を立案、矢島町からは支線として別の取付道路をつけることにした

岐阜タイムズ市内版1959年9月18日

ここには昭和24年の岐阜市議会議事録で語られてきたものとは全く異なる金華橋建設の経緯が記されていた。これにより、私の中では金華橋建設の経緯は以下の通りにまとめることができたと考えている。

  1. 戦前より、岐阜市街地の拡大目的での川北地区の区画整理ならびに忠節橋・長良橋に加えた新橋建設が企図されていた。本町通りからのアクセス、また当時存在した上ケ門の渡しからの上ケ門-早田間の水運の代替を考え当初は電車通り(現・長良橋通)の最初のクランクである矢島町を直進する形で堤上に上がり、直線状に川北へ至る経路が検討されていた。

  2. 戦後、戦争で中断されていた整備計画が再び動き出し、上記の金華橋の計画が昭和24年に正式決定される。

  3. しかし、戦後の急速なモータリゼーション化、川北地区の発展により長良橋、忠節橋およびアクセス道路のキャパシティは限界に達していた。加えて、昭和40年には第20回国民体育大会の開催が決定し、川北に存在する競技場へのアクセスが重視されるようになる。その中で、平和通りからもアクセスしやすいように橋の位置が現在の位置に決定された。

つまり、
「金華橋は中途半端な位置に建てられたのではなく、当初の想定と異なる方面からのアクセスも検討した結果、あえてどちらの道路からも入りやすい中間地点に建てられた。」
といえる。使いにくいとか言ってごめんなさい。
そしてこの経緯ならば、「金華橋通り」という名称がやはりしっくり来る。

その後、金華橋は拡充工事、修復工事などを経て現在は岐阜市街の重要な交通路となっている。ふとした疑問から調べ始めた今回の謎、とうとうコタツ記事では限界があり岐阜市図書館まで出向くことになったが、結果として満足のいく結論に到達できた。

謝辞

最後になるが、突然の相談にも関わらず度々的確な資料提示、助言をいただき今回の調査に非常に助けとなった岐阜市立図書館リファレンスカウンターの職員の皆様に厚く御礼申し上げたい。

いいなと思ったら応援しよう!