【大河ドラマ連動企画 第25話】どうする親宅(松平親宅)
※後追いで追加中。
徳川家に大きな波紋を呼んだ信康事件。その信康に仕え、数奇な人生を辿った武将がいる。松平親宅(ちかいえ)。今回は彼を取り上げる。
松平親宅という名前が示す通り、彼は松平氏の親戚筋にあたる。十八松平の一つ・長沢松平家の松平宗忠の次男として1534年に生まれる。織田信長と同い年、家康より少し年上である。十八松平の復習は下記参照(ぶっちゃけ筆者も覚えていなかった)。
彼が徳川家康に出仕するのは1563年ごろ。比較的早い段階から家康に付き従っている。そのため、家康の信頼も厚かったようで、1570年には彼の嫡男・信康付きとなる。しかし、比較的年齢の近い(と言っても9歳上だが)の家康と違い、信康から見ると一回り以上も年上の親宅は口うるさい老臣にしか見えなかったようであり、度々親宅の諫言を無視することがあり、両者の溝は深まってしまう。親宅の我慢も限界であったようで、1574年には早くも役目を返上し、蟄居してしまう。しかし、信康のことはやはり気にかけていたようであり、1579年に信康が切腹させられると大いに嘆き悲しみ、出家し念誓(ねんせい)と号したとも伝わる。
と、ここまで書くと主君の若君と意見が合わず辞職しただけの人、なのだがここからの彼の人生が面白い。親宅は蟄居後、商売を始める。これはそこそこ軌道に乗っていたようであり、1583年には家康に「初花」という肩衝茶入(茶道具の一種で抹茶を入れておく。肩衝は器の肩部が水平なもの)を送っている。この初花はただの茶道具ではなく、「天下三肩衝」と呼ばれる超高級品である。かつては織田信長が持っており、その際には新田肩衝(こちらも天下三肩衝)に次ぐ天下第二と称される名茶器。コンフェイトではないが、その辺の木っ端商人が手に入れられるような代物ではない。ちなみに初花はその後秀吉に送られることになる。
話を戻すがこの商人としての活躍は家康の耳にも入っており、1579年には家康に召し出され、太刀を与えられている。元々有能な人物だったと思われ、信康切腹後の待遇で彼の役目返上・出家を不問に付す意味があったとされている。そして、1586年には三河国目代となる。
ここで終わってもすでに面白いが彼の人生はさらに転がる。話を少し遡り1583年、家康に茶の栽培を命じられた親宅は三河国額田郡土呂郷で茶が栽培されていると報告、これを取り仕切るようになる。毎年土呂郷産の茶葉を家康に献上していたという。1590年。家康は関東に転封。目代である彼にもおそらく転封の誘いはあったのだろう。しかし、彼はそれを辞し目代も辞任、三河に残る。しかし、それ以降も毎年土呂の茶葉を送り続ける。転封後に岡崎城主となった田中吉政も彼の屋敷からは年貢を徴収しなかった。遠く関東に行ってからも家康はこの土呂の茶葉を味わっては遠く三河、そして親宅や失った嫡男・信康に思いを馳せていたのかもしれない。
1601年、三河国が徳川家の影響下に戻ると再び代官となるが、その3年後、家康の征夷大将軍就任を見届けた翌年に親宅は亡くなった。
最後まで三河に残った彼の「決断」。そこに至るには信康との関係への後悔、自責、あるいは言葉にできない様々な感情が去来していたに違いない。だが、たとえ最後は決裂したとは言え、彼が信康に忠義を尽くした、その証明かもしれない。
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