【大河ドラマ連動企画 第35話】どうする重次(本多重次)
実生活で大仕事を抱えてしまい、バタバタしていたが、ようやっと更新再開である。前回は長篠の戦いがどうのこうの、というところだったので実に4ヶ月も前の話である。武田勝頼も、織田信長も、明智光秀も滅び、家康はついに豊臣秀吉に膝を屈する事となる。今作の秀吉は天下を取ってから変質した、と言うよりは最初から一貫して得体の知れない化物として描かれていて、個人的な秀吉のダークな一面を良く表していると感じている。その欲望へのあり方は中国の怪物「饕餮」を思わせる。その終わりが自らの欲望に起因する破滅、という点も含めて。
今回のポイントとしては「逸話」の取り込み方であろう。上洛した家康を秀吉が訪ねて翌日の謁見の打ち合わせをしたという逸話を「史実」としたのに対し、陣羽織を所望した「逸話」はあくまで芝居として構成する。浜松入部より語り継がれた家康の「逸話」を家康自身が承認することで、それが「史実」との間で渾然一体となる。「事実」と「史実」の間には失われたものもあるし、付け加えられたものもある。「史実」と「逸話」の違いなど、信憑性の差でしかない。そんな歴史解釈の面白さが丁寧に描かれていた。
そんな中で割を食ったのが今回の記事の主人公・本多重次である。曲者ぞろいの徳川家臣団の中でも際立った個性の持ち主であり、家康関連の大河ドラマであれば必ず登場する彼が今回は未登場である。実は第35話で描かれた「大政所の居室の周りに薪を積む」エピソードは重次のものである。
今回は大久保忠世や平岩親吉にも負けない強烈な個性の持ち主、本多重次について取り上げたい。
そもそも、三河には「本多」を名乗る一族が多いが、親戚筋としていくつかの系統に分かれている。それ故、正信は忠勝から「ニセ本多」だの「同じ一族と思われたくない」など散々に嫌われているわけだ(もちろんそれだけではないが)。
本多氏の祖は藤原兼通の子孫秀豊(助秀)が豊後本多を領有したことに由来する、とされている。その後大きく「定通」と「定正」の系統で分家が分かれていく。酔いどれ侍忠真・忠勝の系統、今回扱う重次の系統は定通系、広孝、正信の系統は定正系である。
本多重次は通称を作左衛門。享禄2(1529)年に生まれており、家康の14歳年上。世代としては酒井忠次・石川数正と同世代である。キャラクターとしては本多忠勝同様、剛邁な性格で「鬼作左」の異名を取った。一方で行政手腕も確かなものであり、天野康景、高力清長と共に「三河三奉行」に任命されている。彼らの性格を指した言葉として「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」がありそれぞれ性格の異なる優秀な3名が協力したことを示している。ただ、重次については非道な事はせず、依怙贔屓をせず、明白に沙汰を遂げ、物事の埒が早く明いたために周りのものが驚いた、という逸話が残っており、単なる「鬼」としての厳しさだけでなく道理にかなった検断をしたと伝わっている。また、領民への高札を立てる際には平易な文言でわかりやすく伝え、最後に「右に背けば、作左が叱る」と記したとあり、決して武勇だけの人物ではなかったことがよく分かる(個人的には「右」に背けば作「左」が叱るの表記は風流だと思う)。
物怖じしない性格で主君である家康にも諫言を繰り返し、家康が腫れ物を拗らせて重態にもなったにも関わらず医師の治療を頑なに拒否した際には「犬死にとは情けない」と罵倒した上、「お供仕る」と切腹の準備まで行い折れた家康は治療を受けて事なきを得た、というエピソードが伝わっている。一方で一向一揆の際には自らの宗門を改め、家康に誓書を提出し奮戦。三方ヶ原の戦いの戦いは敵に囲まれた状態で騎馬武者の槍を掴んで落馬させ、馬を奪って帰還している。また、本編でも描かれた於万の方が浜松城を出た後に彼女を保護し、秀康を匿ったのも重次である。忠義に篤い側面も知られる彼は片目、片足、手指を欠損していたと伝わる。
また、彼の逸話で最も有名なのは「日本一短い手紙」だろう。長篠の戦いの陣中から重次が妻に宛てた「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」という短文の手紙だが、簡潔な中に用件が全て織り込まれ、家族への愛情も伝わる名文として知られる。彼の子孫が封じられた越前丸岡において毎年、「一筆啓上賞」というイベントが開催されているほどである。
これらの逸話も多く徳川家臣団において重責を担っていた重次だったが、家康の関東入部後に蟄居を命じられ、そのまま没することになる。この命令は秀吉からの指示であったとされており、その理由は明らかになっていないものの、先の大政所関連の一件が耳に入ったから、とも秀吉の養子となった結城秀康と共に預けられていた息子・成重を勝手に呼び戻したから、とも言われている。ただし、その後、息子・成重の一族は秀康の子・松平忠直の付家老として取り立てられており、この際に成重と入れ替えで秀康に付けられた冨正と同格に扱われている。少なくとも家康からは疎んぜられていなかったのではないだろうか。
世間一般の「三河武士」のイメージ通りだった1人の名将。逸話の塊とも言うべき人物だった本多重次だが、逸話に彩られすぎたが故に、彼一人が目立ってしまう。それを恐れて、今回敢えて出番を割愛されたのだろう。また、敢えて誤解を恐れず言うならば、彼は本作のテーマにそぐわない。タイトルが示す通り、主人公の家康が、あるいは登場人物たちが迷いながら決断し、時に間違え、時に成長していく物語であり、常に迷わず果断する重次はストーリーからオミットされても仕方がないのかもしれない。
だが、その逸話の多さ、その決断の「正しさ」こそ、彼もまた徳川家康に忠義を尽くした名臣だった証であろう。
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