【大河ドラマ連動企画 第47話】どうする◯◯(大阪方の牢人衆)

まさか大阪冬の陣から夏の陣までで1回分持つとは思わんじゃん?

幼き日に母から聞いた、理想の君(とくがわいえやす)。その理想が打ち砕かれた賤ヶ岳からずっと、彼女は「理想の君など存在しない」という絶望と「理想の君が存在して欲しい」という希望の間で生きてきた。その中で生まれたのが正しく、若き日の家康の優しさと、戦乱を生き抜いた家康の闘争心をハイブリッドした「実力を伴った、若き日の家康」とも言うべき最強の怪物、豊臣秀頼だった。最後に家康からの手紙で理想の君の本当の優しさに気づき、一旦は「一人の母」に戻った淀殿。しかし、彼女の子育ては皮肉なまでに成功してしまっていた。
同時に皮肉とも言えるのは直接の血縁はないものの元の家よりも嫁いだ先の家を第一に考える千姫が瀬名に重なって見える事。つまり、自らの理想を成し遂げるために自らと妻を犠牲に生き残ってきた家康に対峙するのが、かつての自分と妻の写し身、なのである。

今回は前回特に触れられなかったのに今回やたらと存在感を発していたあの人、塙団右衛門を始め、あまり語られていない大阪方の牢人衆を紹介したい。


塙団右衛門

集まった牢人衆の中でいやに目立っていた人が居たのはお気づきになられただろうか。大きな旗指物に自らの名前を大書し、名刺をばらまいていた彼こそ、塙団右衛門である。『真田丸』では小手伸也さん(本作では色男・大久保忠世を好演)が演じたようである。
塙団右衛門の前半生は謎に包まれている。諸説があまりに多く、本当に同定できないのである。以下、箇条書きで列挙する。
・尾張国出身であり、塙(原田)直政の親族と推測される。坂井政尚の馬卒から織田信長により取り立てられるが、人を殺めて放逐、諸国を放浪した。
・上総国出身であり、当初は千葉氏、次いで北条綱成に仕えたが、小田原征伐に伴い浪人となった。
・相模国出身であり、玉縄城主・北条左衛門大夫(該当しうるのは綱成→氏繁→氏舜→氏勝)に仕えたが、小田原征伐に伴い浪人となった。
・小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えていたが、浪人となった。
この手の逸話では地域は概ね固定されていることが多い印象だが、彼の遍歴は関東から四国まで幅広い。時雨左之助や須田次郎左衛門などという別名説もある。各地を渡り歩くも鳴かず飛ばずな軽輩として過ごしていたのかもしれない。そう思うと後年の彼の行動も少し納得できる気がする。
ともあれ、どの話でも最終的に一致するのは彼が天正18(1590)~天正20(1592)年の間に加藤嘉明に仕官したことである。文禄の役の際には加藤嘉明が作らせた青地の日の丸の旗指物を背負いながら数々の武功を立て、鉄砲大将に出世する。しかし、己の力のみを頼りに戦ってきた団右衛門は関ケ原の戦いにおいて鉄砲大将の職責を無視して足軽部隊を動かし、これにより加藤嘉明の勘気を蒙ってしまう。嘉明は団右衛門を「将帥の職を勤め得べからず」、すなわち将の器では無いと断罪し、団右衛門も加藤家を小さな水たまり、自身をカモメになぞらえた漢詩を大書し出奔。嘉明に奉公構(大名家へのブラックリスト、他家への仕官を妨害するもの)を出されてしまう。その後紆余曲折を経て大阪に入城した団右衛門は冬の陣で夜襲を行い武功を立て、その際には「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばらまいて撤収。夏の陣の樫井の戦いでは作中にもあった「塙団右衛門」と大書された旗指物を背に壮絶な討死を遂げた。
浪人時代が生涯を通じて長かった団右衛門は自身の実力のみが頼みであり、また自身の生活を支えるためには自己顕示欲の塊とならざるを得なかった。武家の家臣として安定した生活を得られればいずれは将才を得ることもあったのかもしれないが、時代は戦乱から平和へと移り変わっていた。団右衛門は生まれるのが遅かったのかもしれない。

彼を主人公とした小説に司馬遼太郎『言い触らし団右衛門』がある。ぜひ一読をおすすめしたい。

薄田兼相

団右衛門とは逆に、冬の陣で汚名を得てしまったのが、薄田兼相である。
彼もまたその前半生は謎に包まれている。だが、興味深い説として彼の正体が岩見重太郎である、というものがある。小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の次男として生まれた重太郎。しかし、父が同僚により殺害される。重太郎は敵討ちのため諸国を放浪、天正18(1590)年に無事敵を討つと叔父である薄田七左衛門の養子となった、とされる。その合間にいわゆる狒々退治など数々の武勇談を立てたと言われている。
しかし、彼の名を一躍(悪い意味で)有名にしたのが、大阪冬の陣における博労淵の戦いである。大阪冬の陣において木津川に設けられた砦の一つである博労淵砦の守将に任命された兼相であったが、あろうことか自ら遊郭へ出かけてしまう。折悪しく敵襲を受けてしまい、慌てて立ち戻った兼相であったが代理の守将だった平子正貞の奮戦虚しく、砦は陥落。兼相も這々の体で大阪城に退却した。本来長期滞陣において綱紀粛正すべき立場の大将が遊郭に行き、砦を失陥する。前評判にそぐわないあまりの無能さから見栄えばかりで味の悪いだいだいに例えられ、「橙武者」と呼ばれるようになってしまう。これにより信長の野望シリーズでは長らく「智謀」や「政治」のパラメータが驚異の1桁前半となっている。
ちなみにこの際に代理だった平子正貞はこの戦で討死。なんと六代続けて討死という篤すぎる忠義で天下に名前を知られることになる。ちなみに彼の子もこの後の大坂の陣の中で討死し、連続討死記録(?)を7に伸ばしている。その後の記録がはっきりしないところを見るとおそらく彼が末代になってしまったようである。
さて、閑話休題。武辺者として屈辱極まりない汚名を背負った薄田兼相は返上のため、夏の陣で奮戦。道明寺合戦で数多くの兜首を討ち取りながら戦死を遂げた。
彼を主人公とした小説は同じく司馬遼太郎『一夜官女』である。

大野治房

兄・大野修理治長と共に豊臣家で活躍したが今回はばっさりオミットされているのが、治房である。大阪五人衆(真田信繁・長曾我部盛親・毛利吉政・後藤基次・明石全登)に彼・大野治房と後述の木村重成を加えて、大阪七人衆と呼ぶこともある。
豊臣秀頼に仕えて大坂の陣では西方の守備を担当。先に挙げた塙団右衛門による夜討ちを命じたのも治房だったという。しかし、兄・治長は滞陣の長期化に伴い、和平派に変化。これに不満を持った治房は兄との対立を深める。和睦後、大阪城内で治長が何者かに襲撃される事件が発生するがこの黒幕が治房という説もある。実の兄になにやってんのこの人…。夏の陣直前には大和郡山城襲撃、陥落させている。その後、樫井の戦いでは戦場に急行するも団右衛門の壊滅に間に合わず退却。最終決戦では前田・井伊・藤堂および徳川秀忠旗本衆相手に奮戦し、一時混乱に陥れたという。しかし衆寡敵せず、撤退後、城が炎上すると玉造口より逃亡した。その後の行方は杳として知れぬ。

木村重成

大阪先手衆としてはやはりこの人物を除くわけにはいかない。豊臣秀頼の乳母の子であり、秀頼とほぼ同年齢であったとされる木村重成。祖父の代から豊臣秀吉に仕えている、豊臣家には本当に数少ない譜代の家臣である。冬の陣後の和議では秀頼の正使として秀忠と面会しており、その礼法が称賛されている。大阪夏の陣では八尾・若江の戦いで奮戦の末討ち死にした。
最終決戦の直前に、首を取られた際に飯粒が見えるのは見苦しいと食を断ち、またその月代を剃った上で兜・首に伽羅香を炊き込めており、いざ首実検の場で家康にその覚悟を絶賛されている。

戦国最後の戦。あるいは負けるとわかっている、そんな戦でも男たちは名誉を求め、最後の「どうする」に答える。家康はそんな彼らに正面から立ち向かう。乱世を終わらせる「魔王」として。あるいは冥界へと誘う「摩利支天」として。ともすると彼らの行く先を照らす「日輪」として。

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