第32話まで見てようやくわかった「光る君へ」の楽しみ方~さちうすの大河ドラマ論~

はじめに

大河ドラマはドラマである前に歴史作品である自覚を持ってほしい

SatiuS, 2023

そう思っていた時期が確かに存在した。というよりも、今も心の奥底でそうあれかし、と願っている。

大河ドラマという作品は異質の存在である。他のドラマや映画では考えられない潤沢な予算と潤沢な期間を用いて1人(あるいはそれに連なる数人)の一生を描ききる。他の作品ではせいぜい数週間、数ヶ月、数年のタイムスパンでしか流れない作中時間が数十年、時には百年以上にわたって用意される。登場人物の粒度も細かい。50人、100人、あるいはそれ以上の人物に有名・無名・大御所・若手の俳優が当てられる。主人公周りの多くの人物はそのパーソナリティを史実で語られる以上に掘り下げられる。

だからこそ、そして国営放送が製作に携わるのだからこそ、この作品はより「史実」に忠実であるべき、だと私は強く感じていた。2010年代に物議を醸した超時空反戦姫様大河は1ミリも見る気が起きなかったし、たまたま見た回で史実の因果関係が逆転していたことで「見なくて正解だった」と断じてしまった作品もある。学生時代、そして社会人となって新人時代は録画してでも継続視聴する、という文化がなく私の大河ドラマ遍歴は「葵・徳川三代」「功名が辻」「風林火山」「龍馬伝」で止まっていた。

2017年『おんな城主直虎』

転機が訪れたのは2017年である。この年ある伝説的な大河ドラマが誕生する。「おんな城主直虎」である。史実では書状数枚にしか記載がなく、その実在性にも疑義が呈されている(そしてこの大河を契機に進展した研究の結果、男性説まで浮上した)井伊直虎を主人公とする作品だ。ちょうどこの年に結婚した妻の実家は浜松市にあり、大河ドラマ効果に沸いていた。妻や実家に気を遣うように継続視聴したことで久しぶりに大河ドラマ完走を達成したのだ。
ちなみにこの大河ドラマに対する感想は決して悪くない。というのも、資料が少なすぎるので主人公周りの8割はオリジナル展開でも問題がない。主人公がでしゃばりすぎ問題についても、当主クラスが全滅した結果彼女しかコマがいないので、で解決できてしまう。だからわだかまりなく楽しむことができたのである。この作品をきっかけに高橋一生氏のファンにもなった。
氏真がちょっとかっこよく描かれていたのもこの作品からではなかろうか。ポンコツ無能のダメ当主から大名適性以外はハイスペックな文化人へと私の評価が移り変わる時期だったのもありツボにはまった記憶がある。

2018年『西郷どん』

この次の「西郷どん」、については妻は楽しめていたようだったが私にはしっくり来なかった。西郷隆盛。過大評価の可能性は否定できないものの、明治維新の三傑の一人、西南戦争で散った最後の武士としてその功績、知名度はあまりに大きくこれを描くのが難しい。作家の海音寺潮五郎は彼の伝記をライフワークとし、度々彼を主人公とする作品を書き、最後には絶筆となったほどである。その後、司馬遼太郎、池波正太郎、津本陽ら錚々たる顔ぶれがこの人物を描いた作品を執筆している。
だからこそ、脚本を海音寺氏でも司馬氏でもない林真理子が執筆する、となった時点から私は不満であったのだ。
この作品では西郷は成長しない。最初から最後まで良い人、なのだ。それが西郷という人物の大人物さを象徴するようにしたかったのだろうが、私としてはひたすら中身のない空虚な人物感しか抱かなかった。最後に切腹でなく突撃の末の射殺という史実と異なる結末を迎えたことも怒りにつながった。
彼と切磋琢磨し、最後に道を違え、悪役に徹して死んでいった大久保利通はその成長、信念が描かれていたにもかかわらず。脚本家は西郷どん嫌いなのか、とも思った。視聴を再開した2017年以降の作品の中ではこの作品が(暫定)最低評価だ。

2019年『いだてん~東京オリムピック噺~』

翌年の『いだてん』については評価する権利がない。宮藤官九郎が脚本を執った意欲作だったが近現代という時代、大河ドラマとは思えない時代が前後する目まぐるしい展開に妻が脱落。私もほどなく視聴をやめてしまったのだ。今思えばもったいないことをした、と思うのだがこの独特なスタイルは異質と感じられたらしくやはり従来の大河ドラマファンによる評価も芳しくなかったようである。ただし、群像劇を描こうとした試みは決して悪くはないし、そのまま予定通り翌年の東京オリンピックが開催されていれば再評価も期待できたのかもしれない…。あとピエール瀧。

2020年『麒麟がくる』

主要キャストの1人が放映直前に降板、さらにコロナウイルス禍が直撃するなど想像を絶する悲劇に見舞われた作品。伝説のベテラン脚本・池端俊策に実力派俳優・長谷川博己主演で描かれた作品。
近年の研究成果を盛り込むように書かれた悪そうで悪くないちょい悪親父・松永久秀やヤンデレサイコパス・織田信長などぶっ飛んだキャラクター描写もさることながら、はじめは同じ理想のために協力していたにもかかわらず、いつしか怪物・魔王となってしまった主君を討つ、という信長と光秀の関係性をきれいに描ききった名作と思う。本能寺の変で実質話が終わるスラムダンクエンドも賛否分かれたが私は驚きつつもこれでいいのだ、と思った。
この時、大河ドラマを「ドラマ」として楽しむ視点が自分に生まれたと思っている。この物語は、「麒麟」を求める物語なようでいて、その実、信長と光秀の物語である。そしてその物語は、本能寺の変で終わっている。山崎の戦いだの、坂本城だの、安土城だの、そんなものはどうでも良い。この作品の光秀は信長を討ったことでもう役割を終えている。
この作品に不満を述べるならば、やはり巷間でもやり玉に上がった望月東庵と駒のパートだ。私はあまり深堀りしていないのだが彼らにはもう少し深い役割があったのでは無いだろうか。コロナ禍により話数の調整などが行われた結果、本編にいてもいなくても良い夾雑物の立ち位置になってしまったような、そんな気がしている。

2021年『青天を衝け』

その『麒麟がくる』によるあおりを受けてしまったのが『青天を衝け』である。新進気鋭の吉沢亮を主演に日本近代経済の祖・澁澤榮一を描いた作品だが放映期間を削られた上に東京オリンピックも重なり通常よりも短い話数になってしまった。正直なところ、この作品はそこまで面白いと感じなかった。いや、大河ドラマとしては十分な出来だと思っているし、澁澤の日本経済への愛と功績を国民に知らしめ、低迷する国勢に希望を与えようと言う思惑の中ではかなり良いと思う。ただし、ドラマとして考えた時に面白みが少ない。澁澤榮一は江戸~昭和の人間、それも政財界に重きをなした人物であり自身も著作を著している関係上、人物の解像度が高い。高すぎる。書かれているエピソードや説明に解釈の余地がないのだ。事前に小説などを読んでしまった自分も悪いのだが、違う脚本のはずなのに2週目気分になってしまったのである。後は個人的に徳川慶喜が嫌いなので白慶喜描写にも辟易してしまった、というのもある。

2022年『鎌倉殿の13人』

ここ数年では最も素晴らしい作品、と思っているのが鎌倉殿の13人である。『真田丸』で大ヒットを飛ばした三谷幸喜が脚本を担当。武士の起こりであり詳しくは無いが興味がある鎌倉時代が舞台とあって程よい距離感で楽しめそうな作品、と思って入り込んだ。『吾妻鑑』をベースに人間臭い登場人物が躍動し、「史実」を逆手に取った解釈で無理のないストーリー展開はまさに鬼才・三谷の本領といったところであった。
個人的には三谷氏の大河ドラマの印象は『新選組!』の悪評が『真田丸』をわずかに上回っておりあまり芳しくなかったが、やられた、というところである。坂東武者のために悪に染まりきった義時が死によってしか救済されない衝撃のエンドも迫力満点であった。あと、エヴァン・コールの音楽がツボって龍馬伝以来のサントラ購入に至った。

2023年『どうする家康』

さて、その翌年。最初から期待値どん底だった『どうする家康』には良い意味で期待を裏切られた。序盤のトンチキ描写をおちょくり続けたnote記事を書いていた私だったが、中盤から風向きが変わっていく。
これまでの大河ドラマが美化された主人公の活躍を外界から眺める物語だったのなら、この作品は家康の横に立ちつつ第3者視点で俯瞰する物語だったのだ。
トンチキ描写が多かった信長や信玄に比べ、現実的な描写が増えていく勝頼や秀吉。ナレーションとずれまくる家康の行動。これは「家光に、あるいは後世に伝えられた『神君家康』像を蹴っ飛ばし、本当の家康の苦悩、失敗、成長を見せる」というコンセプトだったのだ。だからこそ、恐怖に満ち、恐れていた信長や信玄への心理的描写+そんな彼らと渡り合ったという後世の脚色により前半の描写はオーバーなまでに歪められていたのだ。信長のキャラクターも本当に家康を信頼しているように描かれていたが前半は魔王であるようにミスリードさせる演出だった。
前半のとんでも描写だけで切るには惜しい、じわじわ仕上がる名作だったのである。
J事務所問題で批判も殺到する中、見事に演じきった松本潤には心からの称賛を送りたい。

そして、2024年『光る君へ』

ここまで見てきて、2024年、である。今回も記者会見の時点で不安たっぷりだった作品だった。1話で安倍晴明が暗躍し、いきなり紫式部(まひろ)の母親が藤原道兼に惨殺される衝撃の幕開けに思わず1話切りしそうになった。その後も安易すぎる源氏物語のオマージュ、藤原道長とのラブロマンス。安っぽい少女漫画のようなストーリーに七転八倒していた。唯一の救いはファーストサマーウイカ演じる清少納言が驚異的な解釈一致度であったことくらいか。

しかし、第32話でまひろが源氏物語を執筆し始めるにあたり、ようやっとどう解釈したらいいのかがわかったのである。
帝と桐壺の関係は一条天皇と定子がモチーフ。光源氏は道長がモチーフ。ただし、その中に散りばめられたエピソードは道長一人のものではない。
人は一面ではなく複雑であり、美しい部分もあれば醜い部分もある。だからこそ人間は素晴らしい。そんな平安の人間讃歌を紡ぎたい。それがまひろの執筆の根底にある。それはただひたすらに定子の美しい部分だけを切り取ろうとした清少納言(ききょう)、人間の享楽的な面だけを描く和泉式部(あかね)とは違うまひろの哲学である。
そしてこの物語は「平安時代のエピソードを下敷きに執筆された『源氏物語』」を下敷きに紫式部を描く、少女漫画のような、入れ子のようなそんな群像劇だった。

これが「大河ドラマ」なのか、ということについては議論があるし、私の中では正直現時点では「大河ドラマとしては駄作」という厳しい評価を突きつけている。一方で、歴史小説、歴史ドラマとして見た場合、面白い作品と評価できる。

おわりに:あるいは「大河ドラマ」とは何か

と、ここまで書いてきたわけだが一大河ドラマファンとして、ネットで上がっている様々な意見を見て、思ったことがある。私は大河ドラマとしての既成概念に囚われすぎていないか、と。

大河ドラマにおいて必要な要素など、実は1つしかないのではないだろうか。「事実を捻じ曲げない」、これだけである。これは「歴史書に書かれた通りにしか歴史事項を描写してはならない」という意味だと以前の私は思い込んでいた。
しかし、「史実とは歴史書に記録された一視点であり、事実とは異なる」という大前提に立つと、史実どおりにする必要はないのである。それは「鎌倉殿」や「どうする」で見事に描写されていた。一方で「事実」を捻じ曲げるのは良くない。西郷隆盛は自刃した。これは変えられない結末であり、それを脚本のエゴで変えた「西郷どん」を駄作と評した私の気持ちはそこにつながっている。今年でいえばやはり紫式部の母親惨殺事件だ。権力者だからもみ消された、と書かれているが平安時代は様々な記録が花開き始めた時代だ。歴史書に記録されなくてもそれを匂わせるような描写がどこにもないのは流石にやりすぎな感がある。盗賊や異国人とのロマンスなど流石に記録のどこにも残りようがないので許容できるのだが。

大河ドラマは日本の歴史を俯瞰して、時代の偉人を切り取る作品だと思っている。「美しい部分だけを切り取る」見せ方がどうしても多くなってしまうが、「その人のありのままを描写する」見せ方もやり方次第で人気の作品にできる。ただやはり、脚本家のエゴで事実を捻じ曲げるのだけはあってはならない。
来年は江戸とマイナー時代のチョイスも進んでいる。楽しい作品が見られることを期待して、筆を置きたい。

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