量子力学からでっちあげる自由意志の存在

イントロ

本投稿では、決定論と量子論などから人間の魂と自由意志の可能性を妄想する。

まとめとして、この投稿では『脳内の量子の状態が魂によって決まる、としたうえで、自由意志の存在を主張できる』という妄想を記述している。
これでざっくり言いたいことが伝わるあなたはこの投稿を読む必要はない。これはそこに至るまでの理屈とこじつけと願望を根拠なく書き散らしたものである。

これを読むあなたは、
・この投稿の後半がフィクションであること
・反証可能性があるのかよく分からないこと
・省略しているがほとんどの文が『多分』で始まること
・Wikipediaを引用しまくっていること
以上の点に留意してほしい。
『この筆者ホラ吹いてんな』ぐらいの気持ちで読むのがちょうどいいかもしれない。

ついでに、
・筆者が量子力学の素人であること
・筆者は別に変な宗教にハマっているわけではないこと
などにもできれば留意してほしい\。

もっと言えば詳しい人はコメント欄で突っ込んでほしい。筆者は量子力学も哲学もよく知らないから。

じゃあいってみよう。

決定論

決定論とは、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする哲学的な立場。
うむ、ウィキの説明の冒頭だけだとちょっと難しい。

ざっくり言えば、未来は決まっているものだという主張だ。

我々が見ることができる多くの現象は、古典物理学によって定められている。
サッカーボールを蹴ればその初速や方向などに応じて到着地点はほぼ正確に分かる。これは放物線だとか空気抵抗だとか、高校物理でも習うような法則から導出されるものだ。これを計算するには、ボールの材質、重さ、蹴る強さ、地面、空気の環境など多くの情報が必要になるだろう。
これと同じような感じで、もし世の中の全ての物質の位置や力を知り、すべての法則を知ることができれば、正確な未来予測が出来る、というものだ。

歴史的なあれこれは省くとして、決定論は現在否定されているに近い。少なくとも、この世界の我々にとっては。
というのも、量子力学の世界では我々の知る古典物理学の概念は通用しないことも多い。だからこそ古典なのだろうけど。

量子力学の世界では、量子の位置だとか運動量は定まっていない。それらは波動関数とかいうよく分からないものによって確率的に表記できるようだ。

つまり、とても小さい世界では物体の動きは確定しておらず、そのズレによって正確な未来を予測することができない、という理窟だ。そんな小さなズレ、影響してこないだろ、と言われればそれも正しい。だからこそサッカーボールの飛び先を予測できるのだし。
しかし、その小さなズレが、時間が経つにつれ大きなズレになっていく。バタフライエフェクトとかそんな感じの名前がついている。タイムリープもので、過去をちょっと変えただけで未来が大きく変わる、みたいな話だ。

という訳で、決定論と、それを否定できる量子力学の紹介である。量子力学については次でもう少し説明……するが、筆者の知識は浅いのでちょっと怪しい。

量子力学

注意:ここから先マジで自信ないです、ツッコミ求む。

量子論では、全く同じように系を準備して、その系について全く同じように物理量を測定しても、測定をするたびに、異なった測定値が得られうる。らしい。
とりあえず、量子レベルでモノを測定すると、速度とか位置が決まった値にならない、と解釈しておく。先の決定論は、この量子レベルのズレが大きくなることで起きる変化により否定できるっぽい。
でもその『異なった測定値』も完全な無秩序ではない。その量子系の物理量は波動関数とやらに従い、その波動関数が量子の物理量がどんな値になるかの確率分布を表している。つまりは、量子の位置とかは理論上では確率でしか分からず、実際には観測しないと分からないよ、という事である。

この確率分布についてだが、いくつか解釈があるらしい。一つはコペンハーゲン解釈で、観測することで量子の状態が一つに決定される解釈。そしてもう一つが多世界解釈である。
多世界解釈というのは、世界はもともと大量に存在していて、それぞれの世界でその量子の可能な状態それぞれが全て実現されているという解釈。サイコロで例えると、サイコロを振った時に世界が六個に増えて、それぞれの世界で1から6がそれぞれ出ている、という解釈になる。本当は量子レベルの話をサイコロなんていうクソデカ物体で例えちゃいけない気もするけど、多分感覚的にはそんな感じ。

ちなみに、この多世界解釈は初期状態から一意に決定されるため決定論である。しかし、各世界の観測者にとっては、観測しないと自分がどの世界にいるか分からないため非決定論的である。

次話は、この多世界解釈を前提として進めます。

自由意志

自由意志というのは、人間には、何からも影響(指図や制約)を受けずに、「何かを成そうとする気持ちや考え」を自由に生み出す能力がある、とする仮説である。
つまりは言葉通り、人間は自由に意思を持てるのだ、という仮説。

とりあえずここでは、『大多数の人類にとっては、自分たちに自由意志が存在してほしいものである』とする。感覚的にも、不自由よりも自由のほうがいいよね。

自由意思が存在すると主張するには、いくつかの問題がある。

前述の決定論を認めてしまうと、我々はそれに従うだけなので自由意志は存在しないことになる。言ってみれば我々は神が書いた台本に従うだけなので、自由ではない。
しかしその決定論は量子がどうのこうので否定されている。

ここで、量子の不確定性と自由意志を無理やり結びつける。つまりは、この世のあらゆる量子のうち、脳内の量子については、その不確定性を魂によって選択できる、という主張をすることにする(ここの部分に根拠はないことに注意!)。

意思とは脳内のニューロンがどうのこうのであり、量子レベルの差異は意思の変更に直接関わってこない。しかし、量子力学的な効果がニューロンの活動に影響してくるという理論はあるのでついでにその理論も正しいものとする(上と同様に根拠はない)。前述のとおり、バタフライエフェクトもあるし量子の状態が脳内に影響を与えることは十分に可能である。

上記から、我々の意思とはニューロンの活動によって生ずるものであるが、ニューロンの微細な変化は量子の状態に影響され、その量子が魂によって選び取れるということになる。というか、そういうことにする。魂は量子の変化による脳内の変化を予測でき、そのために魂によって未来の意思を操作することが可能である。つまりは意思や精神など魂以外のすべてを「モノ」側に含め、我々に認識できない魂を「ココロ」側のものとした実体二元論である。

我々の意思は広い目で見れば決定的であるが、それぞれの世界の中にいる我々にとっては、世界のうちのいくつかを魂によって選び取ることで、意思は非決定的で自由なものになる。
まるで選択肢の用意されたゲームのようだ。(ここが分かりやすいからコペンハーゲン解釈じゃなくて多世界解釈の方を使っている)。ゲーム全体は作られたプログラム通りに動くため変化することはないが、プレイヤーであるあなたにとっては選択の余地がある。

我々は、この様にして魂に由来する自由意思を想定することができる。

選択肢の取り方によって自分のいる世界が分岐するが、その選択肢にも数に限りがある。ひいては、いくら努力してもそもそも成功する選択肢が無かったなら失敗することもあるし、確実に成功する何かが、失敗する世界に分岐する選択肢がない可能性もある。自分の魂によって取れる選択肢には限界があるけど、その選択肢は見えないし、世界の分岐先もまったく見えない。だから、頑張ったり頑張らなかったりで、いい感じに生きていこう。気が向いたら、魂を信じつついい選択肢を選べるように頑張ろう。失敗したら、成功する選択肢はなかったのだと思い込んでしまおう。

つまりは、気楽に生きよう、というものだ。長々と前置きをした割にはずいぶんと平凡な結論に落ち着いたものだ。

本投稿の主張は以上である。
ここまで読んでくれた人、ありがとうありがとう。

おわりに

書いていて思った雑感と現実の話をする。ここは適当に書くので追記・削除とかで記述がコロコロ変わったりするかも。

・点と点を曲線で結んだ感じの文章だ。もはやフリーハンドで結んでいる。ぐにゃぐにゃである。

・自由意志について、wikiとかにある『道徳的責任』というのはくそどうでもいいので無視できる。人類が幸福を追求するには刑法が存在するべきなだけで、責任などどうでもいいため。

・努力は場合によっては報われるかも、という理論になった。努力できるかどうか、努力が報われるかどうかも決定されている、というような決定論の立場にも立たず、かといって努力は必ず報われるといったような欺瞞を振りまくでもない、現実を踏まえたいいラインな気がする。

・量子の不確定性がどうのこうのの話、それが波動関数に従うというのがいまいち理解できていないが、魂やその他の要素によって確率が変化するとかは多分ないんだろうなぁ。つまりは、いくつもの理論から不確定でありそれが変わらないことが証明されている、のだと思う。夢がない。

・量子レベルの変化が魂由来とか何を言ってるのやら。でも真理を追究せずに魂と自由意志があるとした方が人にとっては幸福な気がする。結局は満足した豚のほうが幸福なのだから。

とりあえずおわり。
こんな落書きまで読んでくれたあなたに量子レベルの幸あれ。

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