DICKENS|サティス荘 時が刻んだ幻想
Text| Megumi Kumagai
十五分もしないうちにミス・ハヴィシャムの屋敷に着いた、それは古い煉瓦造りの陰鬱な屋敷で、たくさんの鉄格子があった。
チャールズ・ディケンズ|著
熊谷めぐみ|訳
『大いなる遺産』より(以下同)
サティス荘は、『大いなる遺産』に登場する屋敷である。
ケント州ロチェスターに今もある、Restoration House|レストレーション・ハウスが屋敷のモデルとされている。
入ってみると、そこは蝋燭の明かりで照らされた、とても大きな部屋だった。太陽の光は少しも見えなかった。その多くは子どもの私には形も用途もなじみのないものであったが、置いてある家具から察するに、そこは化粧室のようだった。
『大いなる遺産』は、ディケンズが自ら編集を務める週刊誌『オール・ザ・イヤー・ラウンド』に1860年から61年にかけて連載された小説で、完成度の高さから現在でも評価が高く、ドラマや映画も数多く制作されている。
ある日、突然莫大な遺産を受け継ぐことになった孤児の少年ピップは、遺産の送り手が誰であるか知らぬまま、ジェントルマンとしての教育を受けるためロンドンに旅立つ。ロンドンで放蕩生活を送り成人を迎えたピップは、ついに自分の遺産の送り手を知る、というミステリー仕立ての物語である。
原題のGreat ExpectationsのExpectationsには、大いなる「期待」と大いなる「遺産(相続の見込み)」の二つの意味が込められている。
少年ピップが町にあるサティス荘に連れていかれたのは偶然だった。屋敷に住むミス・ハヴィシャムが家に来てくれる男の子を探しており、たまたまピップが選ばれたのだ。しかし、このことがピップの人生を狂わせる出会いを呼ぶことになる。
彼女はサテンやレース、シルクなどの高価な素材を身にまとっていたが、それはすべて真っ白だった。はいている靴も白かった。頭からは長く白いヴェールが垂れ下がり、髪には花嫁がつける花を飾っていたが、その髪は白くなっていた。
サティス荘にはミス・ハヴィシャムと美しい養女のエステラが住んでいた。蝋燭の灯りだけの暗い室内は、少年ピップを怖がらせる。しかし、何よりもピップを驚かせたのは、太陽の光が届かない暗い部屋の中で、蝋燭の明かりに照らされ、かつては白かったはずの黄ばんだウェディング・ドレスにやせ衰えた身体を包んだミス・ハヴィシャムの奇妙な姿だった。
私はその時はじめて、部屋中のものすべてが、時計と同じように、ずっと昔から止まっているのだ、ということを知った。
ミス・ハヴィシャムは、結婚当日に愛する恋人に裏切られた。そして、その日以来、屋敷の時計は裏切りを知ったその時間で止められ、屋敷中が時を止めてしまったのだ。
彼女が屋敷の脇戸を開けるまで、私は何の考えもなしに、もう夜になっているものだと思い込んでいた。日の光がさっと入ってきて、私はすっかり混乱してしまった。奇妙な部屋の蝋燭の明かりの中に何時間もいたような気になっていたのだ。
ウェディング・ドレスを着たミス・ハヴィシャムは止まった時の中で男への復讐に燃え、美しいエステラを復讐の道具として養育し、ピップをその実験台にしようと試みる。結婚式当日がミス・ハヴィシャムの誕生日であったことから、婚礼衣装を身にまとったままの彼女は、当時の記憶を呼び起こし復讐心をあらたにする日に、同時に時の流れを実感せざるをえないという矛盾の中にいる。ピップも成長著しい子供という点で、ミス・ハヴィシャムに時の流れを感じさせる存在となる。
私たちは長い間このように過ごした、そしてこれからもこんな風に続いていくだろうと思っていたある日、ミス・ハヴィシャムは私と二人で歩いている時に突然立ち止まって、私の肩に寄りかかると、不快そうにこう言った。
「ピップ、おまえ背が伸びたね!」
裏切られた時の中に永遠に身を置こうとするからこそ、ミス・ハヴィシャムは逆説的に時の流れの微妙な変化を強く感じざるをえない。サティス荘はミス・ハヴィシャムの悲しみと恨みが染みついた美しい廃墟のような場所であり、そのような場所でも成長していくエステラやピップといった少年少女たちの一瞬の時間を切り取ったはかない子供時代を象徴する場所でもある。
人は成長し、時間は無常に過ぎていく。時計を止めても、時が進むのを止めることはできない。
サティス荘は、そんなミス・ハヴィシャムの矛盾を具現化したような悲しくも美しい、滅びゆく過去の幻想である。
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作家名|川島 朗
作品名|サチス荘の影(夜の手紙)
ミクストメディア
作品サイズ|17.5cm×21.9cm×8.7cm
制作年|2012年
Text|Mistress Noohl
2012年開催、ディケンズ生誕200周年を記念した美術展《英国文学十四行詩集vol.1〜ディケンズの夢》にて発表された、『大いなる遺産』に登場するサティス荘を題材とした陰影美しいオブジェ作品。
時の歯車も静止し、ミス・ハヴィシャムのウェディングドレスの衣摺れを写した繊細な羽根も、止まったまま、動こうとしない。窓から覗くのは、エステラか、はたまたミス・ハヴィシャムの過去の幻影か——錆びた時の歯車とは対照的に、自由への鍵は金色に照り返している。物語の断片が封印された試験官と、永遠に喪われた美しい時を留める鉱物の透明が、オブジェに入り込む光をやさしく受け止めている。
過ぎ行く時の残酷を、川島さまの手により永遠に止めた、サティス荘へのレクイエムであり、オードたる傑作。
オブジェは自立できるので、キャビネットの上などに飾ることができます。正面にはガラスが嵌め込まれ、朝から夜へ、時間の経過によるガラスの反射で、変化するオブジェの表情を楽しむことができます。
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