DICKENS|ディケンズ最後の小説に香る世紀末的頽廃とアヘン
Text|Megumi Kumagai
十九世紀の文人たちを魅了した頽廃の香り漂うリキュール、アブサン。
同じ十九世紀に、イギリスで多くの文人たちが耽溺したものがアヘンだった。
現在とは違い、当時のイギリスではアヘンは禁じられた麻薬ではなく庶民も手軽に入手できる万能の医療薬だった。主に鎮痛剤や睡眠剤として日常的に人々に用いられていたアヘンは、 しかし深刻な中毒をもたらすものであり、服用によって中毒死することも珍しくなかった。
アヘン中毒の体験を『阿片常用者の告白』(1822)に記したトマス・ド・クインシーをはじめ、多くの文人たちもまたアヘンを常用していた。ロマン派を代表する詩人のサミュエル・テイラー・コールリッジはアヘンを愛用し、その影響は作品にも見られる。ロマン派第二世代と言われるバイロンやシェリー、キーツなどもアヘンを常用していた。
ディケンズと親交が深い人物で、互いの創作活動に大きな影響を与えた年下の作家ウィルキー・コリンズもアヘンの常用者だった。イギリス最初の長編推理小説と言われるコリンズの『月長石』(1868)にもアヘンを服用する様子が描かれている。ディケンズ自身はアヘン中毒ではなかったが、同時代の多くの人と同じように、アヘンチンキを薬として服用することはあった。
ディケンズの小説にもそうした時代を反映するようにアヘン中毒者のキャラクターが描かれている。たとえば、『荒涼館』(1852-53)に登場し、貧困の中、悲惨な死を遂げる代書屋のニーモー(ラテン語で「誰でもない者」の意味)の死因は、アヘン中毒によるものと判断される。
しかし、アヘン中毒者として最も印象的なキャラクターは、ディケンズ最後の長編小説で、ミステリーでありながら作者急逝のため未完に終わった作品『エドウィン・ドルードの謎』(1870)の主要人物ジョン・ジャスパーだろう。
ジャスパーはクロイスタラム(ディケンズとゆかりの深いロチェスターがモデルと言われている)の町で、大聖堂の聖歌隊長を務める若者である。立派な地位についてはいるが、静かな町での単調な日々に退屈しきり、鬱屈した感情を持て余している。倦怠感に取りつかれたジャスパーは、刺激を求めてアヘンに溺れる。そんなジャスパーが密かに通うのが、ロンドンのアヘン窟である。
上図版|『エドウィン・ドルードの謎』(Luke Fildes・1870年)
物語は、ロンドンのアヘン窟でジャスパーが見る幻覚の描写という印象的な場面で始まる。クロイスタラムで抑圧されたジャスパーの歪んだ感情は、ロンドンのアヘン窟で解放される。物語冒頭のアヘン窟の場面では、ジャスパーの他に中国人とインド人水夫と女がおり、みなアヘンに溺れているように見える。しかし、実際はジャスパーがアヘンで朦朧とした意識の中思わずもらした言葉を女が聞いており、作品が完結していれば重要な謎解きの鍵になったであろうことが推測される。
ジャスパーの歪んだ感情と倦怠は、アヘンへの耽溺だけに終わらず、ついに殺人にまで行きつく。自分を慕う甥エドウィンの殺害を実行したと思われる日に、普段神経質なジャスパーは、常にない程の平静さを見せ、聖歌隊でいつにもまして美しい声を響かせる。ここでは殺人と芸術が結びつき、犯罪を芸術とみなすような世紀末的な頽廃さが、まるでオスカー・ワイルドの作品を先取りしたかのような世紀末的な頽廃さが、アヘンと退屈に溺れた恐るべき人物ジャスパーを通じて描かれている。
作家で批評家のアンガス・ウィルソンは、ディケンズ晩年の小説である『互いの友』(1864-65)のユージーン・レイバーンやモーティマー・ライトウッドと同様にジャスパーもまたその音楽とアヘンとで1890年代を志向している、と鋭く指摘している。一見、遠いように思われるディケンズと世紀末は、彼らを見る限り、そう遠くない距離にあったように思われてくる。
上図版|Opium Smoking — The Lascar's Room in "Edwin Drood" (Gustave Doré ・1872年)
|参考文献|
ウィルソン,アンガス『ディケンズの世界』松村昌家訳、英宝社、1979年。(Wilson, Angus. The World of Charles Dickens. Secker and Warburg, 1970. )
松村昌家『ヴィクトリア朝文化の世代風景:ディケンズからの展望』英宝社、2012年。
村岡健次「イギリス・アヘン小史」松村昌家・川本静子・長島伸一・村岡健次編『英国文化の世紀4 民衆の文化史』、研究社出版、1996 年。
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