ぐんぐん成長するつよし
どうして、私はあなた方の未熟さを、欠陥を許して受け入れているのに、あなた方は許してくれないんですか?
と本気で思う。
私は仕事以外において他人に腹が立つことがかなり少ない。それは少しの寛容さと、あとは自己防衛が由来のような気がしている。
寛容な部分もある程度あるが、それほど私は大人ではない。腹が立つ→他人に怒る or 我慢する→自己嫌悪、から自分を守っているという部分も大いにあるだろう。
あるとき、「蒙古タンメンひっくり返し」について友人と話したことがある。
アウトランダーの車内で食べ物をこぼされることに対して、私があまりにも寛容すぎるために質問された。「蒙古タンメンをひっくり返されても許せる?」と。
わざとじゃなかったとしたら絶対に許せる。
蒙古タンメンを車内で食べるのを許した時点でそれは許せるでしょ。そのときはそう思っていたが、最近明確な答えが出た。
「車はあと10年くらい乗るかもしれない。でも、蒙古タンメンひっくり返しの話は20年経ってもたぶん笑えるから」だ。
そんな面白いエピソードを与えてくれたら、蒙古タンメンひっくり返しくらい許せるよ。一旦シート拭きながら落ち込みはするけどね。
寛容すぎん?と言われたりもするが、そうでもない。自分の欠点を責められると、完璧でない自分に対しても、そして他人に対しても怒りが湧いてくる。
寛容なフリをしてるだけじゃんね。「どうしていつも私は許しているのにお前らは許してくれないんだ」って。
その感情さえ無になれば真の「寛容」になれるんだろうなあ。もしくは完璧になるか。右の頬を叩かれたらナントカカントカになるか。
100点満点じゃない自分自身をどうしても許してあげられないのだ。他人を許せないというよりも、怒の感情を抱いてしまう自分が許せないのだ。
自分を許せない人間が
自分を大切にできない人間が
自分を愛せない人間が
本当にその通りだと思う。
前にも書いたことがあるが、色んな年齢の自分たちがなかなか一人になってくれないのだ。
必要以上に過去の後悔が膨れあがり、「あのときの自分」を受け入れられない。
まだまだ大人になりきれていない。
だけど26歳、これを言語化できるようになった。自分の怒りやストレスの根源を分析して表現できるようになった。成長。
いつか大人になったときに、これを見返してどう思うだろうか。26歳の自分を受け入れて、この痛々しい文章ごと認めて褒められるだろうか。そんな器の大きな人間になれるだろうか。
次の一年の目標は、ちょっとだけ将来の夢に近づくこととちょっとだけ幸せになること。
どうせ私のことだから大きな一歩は踏み出せないんたけどさ。
これからの自分が幸せにならないと、「大人の言うことを聞かなければならない」、「勉強を何よりも一番にしなければならない」、そう信じて疑わなかったあの私が不憫すぎるじゃないか。
私は、100点満点取れなかった私を、いつか抱きしめられるようになりたいのだ。
本日、アナゴさんとボボボーボ・ボーボボと同い年になります。