
「文字化すること」はなぜ大事なのか
昨年,私にとっては2冊目となる書籍(学術書)を刊行したのですが,思いのほか評判がよく,関連の学会から「本の内容について講演してもらえないか」という依頼を受けるようになりました。本日は,名古屋市内の大学で開催された某学会の定例研究会に招聘していただき,自分の研究内容について約2時間にわたり(本当は1時間の枠だったと思いますが,タイムキーピングが緩い感じで,質疑応答が延々続くという展開に…)お話をさせていただきました。
大学だけでなく中学校や高等学校の先生もご参加くださっていて,およそ100人くらいの方が聴きにきてくださっていたようです。書籍を購入してくださった方々が「本が自分の研究にすごく役に立っています」とか「この内容を日本語で読めるのはありがたいです」と言ってくださったり,本のあちこちに下線を引き,修士論文の執筆に役立てているという学生の方に出会ったり,まさかの「サインください」というお声をいただいたり(手が震えました)。改めて,この本を書いて良かったなあと思ったのと,研究を「文字化すること」,思考を「活字にすること」がいかに大事であるかを再認識しました。どんなに頑張って研究をしても,文字化されないものは研究として他者に届けることはできない。頭の中でどんなに一生懸命思考しても,活字化されないものは思考として他者に認識されない。その研究が世の中に公開され,他者の手に届かなければ,その研究はなされなかったも同じである。もしかしたら結果的に日の目を見ない研究になるかもしれないし,先の見えない研究レースは楽しいことばかりではありませんが,文字化されたものこそ研究,活字化されたものこそ思考であるからこそ,研究者は書き続けるのだろうと思います。
学術書の刊行を考えている読者の方がおられるかもしれないので,少し情報共有しておくと,今回刊行した書籍(学術書)は,科研費の「研究成果公開促進費(学術図書)」を獲得して実現したものでした。実は,出版業界では,「学術書は売れない」というのが定説になっているようで,この書籍も,当初は市販性が見込めなかったため,出版社から「(ウチから出したかったら)科研費を取ってくださいね」と言い放たれていたのです(汗)。そんなわけで,科研費・研究成果公開促進費(学術図書)の種目に,まず (1)応募し,(2)採択され,(3)出版にかかる予算を獲得するという3段階が必要でした。結果的に,構想 → 執筆 → 科研費申請 → 採択通知 → 原稿校正と,トータルおよそ3年かけてなんとか刊行にこぎつけましたが,それでも,どのくらいの人に読んでもらえるかは未知数でした。とにかく周りから「学術書は売れない」と言われ続けまして・・・(売れない売れないってうっせーよと思うこともありましたが)。しかし,2024年3月に書籍が刊行されると,出版社や研究者仲間がSNSで広報をしてくれたこともあって,想定外のスピードで初版が完売となり,刊行後,なんと約半年で重版が決まったのです。当初,「(ウチから出したかったら)科研費を取ってくださいね」と割と冷ややかに言い放っておられた編集者の方も,「学術図書がこんなに売れたのははじめてです!!」とそれはそれは大喜びで・・・(世の中,単純なものです)。とにかく,出版社にも,読者の方々にも何らかの貢献ができたのであれば,これ以上に嬉しいことはありません。
# ところで「学術書は売れない」から始まったこの事例のように,定説や通説というものは覆されることがあります。学生のみなさん,大半の人ができなかったとしても,もしかしたら,あなたにならできるかもしれない。だから,周りの人々が言ってくださる助言は,時に「親切なノイズ」として聞き流すことも必要です。
今日,基調講演をさせていただいた学会で,いろいろな方々から,本の感想やポジティブなコメントをいただいたり,サインを求められたりする中で,改めて気がついたことがもう1つあります。それは,自分がおこなってきた研究の価値を決めるのは,自分ではなく,他者(読み手)であるということです。私自身は,自分自身の専門知識がもしかすると誰かの役に立ったり,社会をより良くしていくことにつながるかもしれない,もしそうであれば,この知識を他者に共有したい,そんな思いで本を書きました。ただそれだけです。その知識が,長期間にわたってどのような価値を生み出し,その価値を持ち続ける可能性があるかどうかは,事前には誰も判断できません。研究成果の価値は,読み手が決めるものだからです。メンデルの遺伝の法則とかニュートンの運動方程式とか,偉大な成果とされるものは,千年以上にわたり価値をもたらし続けていますが,その発見に価値づけをしたのは後世の人々です。おまえの研究をメンデルとニュートンと横並びにするな!というお叱りを受けそうですが,何が言いたいかというと,研究活動というのは,知識を増やす活動であって,価値を生み出す活動ではないということです。価値を生み出してくれるのは,書き手ではなく読み手です。だからこそ,知識を文字化し,活字にして他者に知ってもらい,他者に価値を判断してもらうことが必要になるということなんですね。出版社や周りの人々が「学術図書は売れない」と信じ込んでいたように(←まだ言ってる),事前には,誰ひとりとしてその研究の価値がいかほどであるかは判断ができないのですね。
「研究とは,知識を増やす活動であって,価値を生み出す活動ではない」という考え方は,卒業論文や修士論文にも当てはまります。初めて論文を書く学生は,「もっとすごい研究にするには」とか「もっと価値を高めるには」ということを考えがちで,その結果,1年や2年で答えられそうにない壮大なスケールのリサーチクエスチョンを立ててしまうということが往々にしてあります。このような発想の根底には,おそらく,「研究では,人類や社会にとって大きな『価値』がある結果が得られなければならない」という思い込みや誤解があるのかもしれません。しかし,この発想は良い方向性ではないと思います。そうではなくて,「どうやって知識を増やすか」「どうやって未知を既知にするか」と考えた方が良い研究になりやすいと思います。あるいは,科学的知見というのは,「〜かもしれない」の積み重ねでしかないことを理解した上で(自然科学系の研究は違うのかもしれませんが),この「〜かもしれない」現象が自分のデータでも「裏付けられたか・裏付けられなかったか」という観点から,新しい知識を増やしていくことを考えると新規性のある研究になっていくのではないでしょうか。いずれにしても,1つの論文が立てるリサーチクエスチョンは,本当に小さく地味なもので構わないのです。そして,若いあなただから見える世界,大人が持っていない視点を持つあなただから切り込める現象を,文字にして,活字にして発信してほしいと思うのですね。それがどのくらいすごい価値があるのかは心配せずに。あなたの研究の価値は,事前には判断がつかず,文字化・活字化された後で,あなたの研究を読んだ誰かが判断するものだからです。
mochimottiさんによる素敵なイラスト画像をお借りしました。ありがとうございます。