Understanding World by 対話型アート鑑賞
モスクワ時代に繋がった各国の駐在妻の人たちと一緒にUnderstandingWorldという小さなコミュニティを続けている。
元はオフラインでお茶を飲みながらやっていた活動だったが、コロナでオンラインが多くなり、そして戦争で私は帰国を余儀なくされ、完全オンラインの活動となった。
トルコ人のDeryaが中心になり、トルコ、シリア、メキシコ、ロシア、イギリスなど様々な国の人たちと勉強会をしてきた。内容はそれぞれの国についてのプレゼンがメインだが、女性問題についてやマインドフルネスなどいろいろなテーマで対話してきた。
そして先日、対話型アート鑑賞を実施した。
以前手放す経営ラボラトリーの千葉ブランチのイベント触れて以来、これは絶対この場でやってみたい、と思っていた。その時ファシリテーターをされていた、Rieさんにラブコールを送ったのだが、英語での対応が難しく、私が見様見真似で開催することになった。失敗が怖かったので、その時取り上げられたクリムトの「接吻」と弟子のエゴン・シーレの「死と乙女」を題材にした。
本家がある中で、心許ないことではあったが、やはりこれまで続けてきたこのつながりの中で、この試みを実施した意味を全身で感じた、記憶に残る会となった。
クリムトの絵について。
「モスクワのグレーな天気に鬱々としていたが、この作品のカラーがビビッドで心が明るくなるね」
「境界線がなくて服の裏で何が起こってるかわからないわ(笑)」
「そういえば、お互い対比的な衣装や形をしているのに境界線がない。」
「男性は宗教性を感じる服装だね。なんだかわからないけど、男性優位のヒエラルキーを感じる。」
お互いの違う意見がとても面白く聞こえて、なんで?なんで?と聞き合う。
見ているものは同じなはずなのに、共感も驚きもある。そして感じたものの背景を聴くとその人のピュアな美しさに必ずたどり着く。英語が第一言語ではない中でも伝えようとするエネルギーと、そしてそれを五感全てで受け止めようとするエネルギーが場に生じる。実施できた私が一番感動していたかもしれない。
日本語で、理解することを「分かる」と、「分」という字を使う言葉から、私たちは世界を分けることで理解してきた。国境、宗教、大人と子どもの区別、プロとアマの区別、様々なビジネススキル、契約。お互いがどんな立場に立っているのか、その立場に立っているということはどんな文脈を背負っているのか。ラベリングすることで、効率的に快適に生きることができる。特に西洋文化は「分ける」文化ではないかと感じている。
対話型アート鑑賞の最初のステップもまず自分の目で絵を「分ける」ことから始める。しかしそれぞれがその分けた世界から受け取ったものを感じていくと、世界観として浮かび上がってくる。多様な視点であるはずなのに、それが地続きで繋がっているように感じるのだ。
成人発達理論によれば、成熟していなければ人の立場に立って考えることはできない、とされている。しかし、この言わば、「相手の内側に何があるかを聴く」ことで、分けられていた世界が、立体感のある、厚みのある一つの世界として私たちを包み込むように存在している事実が突如として立ち現れる。
私は戦争が起きているこの瞬間でも、この些細な体験を大事にしたいと思う。
目の前の人が何人だろうが、何教だろうが、一人ひとりが美しくて、同じ空の下で生きていこうと声を掛け合って生きていたいと思う。
We are all different and in one universe.
宇宙から見たら、きっと当たり前のことが半径5mだと見えづらいだろう。
半径5mから見たら美しいものも宇宙から見たら見えないのだろう。
どちらの視点も大事に生きていこうと思う。
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