私は命をもちぐされている
絵日記を上げているマガジンの名前「もちぐさ日記」の由来を書きます。
大元は学生時代親のお金で買ってもらったノートパソコンにつけた名前「よもぎ」でした。せっかく親に買ってもらってちゃんとしたスペックを持っていたのに、ネット見るくらいというごく一部の機能しか使っていなかったので、私には宝の持ち腐れでした。そこで、もちぐさ=餅草=よもぎという名付けになりました。
思えばいつも私は持ち腐れていると思ってきました。ネットやニュースで見聞きする競争社会の厳しさ、家族関係の難しさ、性別をめぐる闘争、知れば知るほど、私は恵まれていました。
そして、それを持ち腐れていて、何も活かせていない。
「僕らは命に嫌われている」と叫ぶように歌う歌が5年くらい前に流行りましたが、私の場合は逆で、いつも命に愛されていると感じてきました。私の命は私に健康でよく動く身体をくれたし、考える力や、どこかへ進むエネルギーを惜しみなく注ぎ込んでくれていると感じます。なのに私は何も出来ずに引きこもり、果ては死にたいと呻いていた。もらったものを生かせていないのは私の方だと、いつも感じてきました。
私は命を持ち腐れている。
この日記は命を持ち腐れている私を表し、出来れば持ち腐れをなんとかしたいという試行錯誤の日々の記録です。身も蓋もない言い方をすれば、かくことでなんかしてる感欲しい!というだけかもしれません。なんかしてる感あれば持ち腐れ感は減るのではないか?どうだろう。
最後にまたもや哲学者の千葉雅也さんの話になるのですが、千葉さんはしばしば「人間は余っている、過剰な生き物だ」と言っています。人間は他の動物に比べると、自由や可能性を大きく余らせているという特徴を持っているらしい。とすると、命を持ち腐れているのは人間としては珍しくない状態なのかもしれないです。人間は余っている。そして余っているが更に過剰になり過ぎると持ち腐れになるのでしょう。
例えば行動力のある人は持ち腐れ感はないのかもしれない。私もなるべくそうしたい。
でも、生物としてどこまでいっても余っているというのなら、余らなくなることはないということです。それなら人間は誰しも持ち腐れ性の淵にいるのではないか。
持ち腐れの淵で可能性を仮固定して余りを腐らせないようにするこの日記の試みは、ひたすらに人間らしさを謳歌しているのだろう。