心神耗弱の通り魔少年K.M(19)
判決で死刑が回避される理由で刑法39条や少年法があると一部ネット上では、これらの法の撤廃や判決を下した裁判官を誹謗中傷する書き込みが散見されるが、熟練した裁判官でも線引きや判断が分かれるくらい裁くのが難しいのだろうと感じる。
昭和33年に埼玉県下で発生した少年が僅か一ヶ月あまりに女性7人に襲いかかった事件を記す。
女性ばかりを狙った連続通り魔事件の概要
埼玉県下発生場所不明
昭和33年6月2日 被害者は少女
同年6月9日 被害者は少女
同年6月27日 被害者は少女
同年7月1日 被害者は少女
(この少女らは強制わいせつや傷害等で怪我)
同年7月3日午後2時40分 戸田町
女性(51)が留守居中に家に上がり込んできた男に首を絞められ殴られ全治二週間の怪我
同日午後9時30分蕨町
帰宅途中の女性(43)に「金を出せ」と脅したが断られたために所持していた短刀で8ヶ所を切りつけドブ川に投げ落とし全治一ヶ月の重傷
同日午後10時頃蕨町
帰宅途中の女性(36)が全身を10ヶ所刺されて死亡しているのを近所の人が発見
事件は着ている服装や自転車などの目撃情報などから、すぐに近隣の少年が有力とされ日付が変わった深夜1時過ぎに少年の自宅で身柄が確保された。
逮捕された少年K.M
少年は事件現場のすぐ近くに住み、母親と兄妹5人と暮らしていた。
都立高校に通い成績は優秀で常に首席だった。しかし卒業後は(先生が気に入らないから中途退学したとの報道もある)仕事は何をしても長続きせずに定職につかずにふらふらとしていて、父親が亡くなった昭和33年3月頃には急に大声を出したりするようになり、ついには食事中に暴れだして、家族が取り押さえるも裏口から薪割りまで持ち出し家具をめちゃめちゃにして手がつけられなくなったために警察を呼んで強制入院となった。
温和な性格と見られていたが、近所の人に大声を上げたりする事もあったようだ。
成績優秀者がその後に理想が高すぎたり、自分がどうしていいのかわからずに鬱いでしまう事は珍しくないようだし、そこに父親との死別なども重なったことも大きかったのでは?と感じた。
その一ヶ月後に家庭の都合との理由で治療が終わってない状態で退院し引き取られ、そこから一ヶ月半後に一連の事件を起こした。少女に乱暴する事件が発覚しなかった事でエスカレートし、7月3日の事件は「金がほしかった」「悲鳴を聞いたら気持ちが高ぶった」などと取り調べで自供したが、被害者の女性を「女は死んだんですか?」と気にする一面も見せた。
犯行に使われた短刀は盗んだ包丁を改造した物であった。
分かれる判断
昭和34年2月3日に浦和地裁で求刑公判が開かれた。
入院先でもあるK病院の院長の鑑定では、
①犯行時は精神分裂病だった
②完全な責任能力が期待できない状態だった
③現在もその状態が続いている
とし年少者でもある事を理由に弁護側は寛大な処分を求めた。
対して検察側は心神喪失にはあたらないし、年少者ではあるが事件は重大とし無期懲役を求刑した。
判決公判は同月の17日午後に開かれ、裁判長は「各犯罪事実の中で強盗殺人は死刑を選択したが、心神耗弱が認められ、現在もその状態のため10年以上の懲役刑を取り、他の罪を併合させた」と懲役15年の判決を言い渡した。
これに対して検察は「犯行は女性ばかりを狙っている。再犯の恐れも高い。」「荒川の通り魔事件より悪質」とし控訴した。
※荒川通り魔事件は昭和34年1月に発生し10人の若い女性ばかりが狙われ16歳の少女が死亡した事件で昭和49年に時効成立
昭和34年8月18日東京高裁
裁判長は「女性ばかりを狙った犯行は悪質で心神耗弱状態も死刑が懲役刑に減刑されるほど影響をしていない。」とし一審の懲役15年を破棄し無期懲役を言い渡した。
※上告せずに確定したと思われます。
参考:【埼玉新聞】【読売埼玉版】の昭和33年7月5日、昭和34年2月4日、18日、28日と8月19日
協力:折原臨也リサーチエージェンシー