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無理心中装い家族4人毒殺 R子(19)

事件

「母と弟三人が毒を飲んで一家心中したの」
昭和31年3月9日夜8時40分頃に東京都江戸川区の小松川署管轄の駐在所に届け出がありYさん方に署員が駆け付けた所、母(46)と三男(8)は既に亡くなっており、長男(17)と次男(12)も虫の息で近くの病院に運ばれたがまもなく亡くなった。
現場の状況に不自然な点が多く、任意で取り調べをした所、この家の長女で届け出たR子(19)が日付が変わった深夜1時頃にあっさりと自分がジュースに毒を入れた事を自供し少女が家族4人を殺害する大事件となった。
①遺書がない。②毒を飲んだ母がR子には「お前は飲むなと言った」点③栓抜きと瓶の蓋がネッカチーフの下に隠してあった。などが不自然な状況とされた。

【昭和31年3月10日朝日新聞】【昭和31年3月10日毎日新聞】【昭和31年3月10日読売新聞】

生い立ちと事件の動機

この家族は戦時中は埼玉に疎開し、R子は「疎開者」といじめをうけていたが、父親っ子で内向的なR子は父親にはなついていた。
その父親が昭和26年に肺の病気で亡くなり、この事がR子の中ではとても強い喪失感を感じ、父親の保険金の一部を抜き取り家出をしている。(睡眠薬で自殺未遂を考えるが出来なかった)
家庭は母親が出張理髪師をしてここまでの苦しい生活を支えていた。メッキ工場で働くR子には結婚を意識する工場関係者の年上の男性Sがいて、この男性が事件現場となった場所の地主に土地を借り、又貸しという形でY一家は家を建てて(6畳間一間と報道があるのでかなり窮屈)生活していたが、「又貸しは困る」「貸している土地から家がはみ出している」等のトラブルをSからR子が聞いていたが、母親には相談出来ずにいた。
R子は事件があった同年1月28日に友人のH子の自宅からH子の兄のカメラを盗み出し、新小岩の質屋に入れたがこれがバレたらどうしようと心配になり、この頃から地主のトラブルもあり情緒不安定になり、勤めていた工場から青酸カリを盗み出し自殺も考えていた。
2月5日にカメラの盗みが発覚し、母親が示談金を払って収めていたが母親とR子は関係が悪化し(元々あまり仲が良くなかったようだ)、R子は父と同じ肺の病気も悪化し仕事も嫌になり辞めていたが、この事も母親には言っていなかった。R子はSとの結婚を望んでいたがSが「扶養の多い家は嫌だ」と断っていた。
これらが全てR子の心に重なり「家族がいなくなれば悩みが全て解決しSさんと一緒になれる」と考えるようになり、事件発生日に三男をつれて銭湯に行って帰宅した際に、長男と母親が口論しているのを見てR子の中で線が切れて、家の事や仕事の事を全て母親に打ち明けて口論となり、「一度落ち着こう」となった時にR子が4人にジュースを用意し犯行に及んだのだった。
【昭和31年3月10日朝日新聞夕刊】

その後

Sも共犯を疑われたが、任意での取り調べとR子が「Sさんは関係ない」と自供していたので無関係と断定され、R子の単独犯として同年同月11日に尊属殺人容疑で検察庁に送られ、12日に拘置されて本格的に取り調べる事になった。
「頭も狂っていない。生理的なものでもなさそうだ」と取り調べした係官は取材に応えている。
捜査ではR子が毒を盛った茶碗を投げ捨てたとされる池の水を全て排水して4日目に供述通りの場所から絵柄も一致する茶碗が出た。また精神鑑定も行われ短絡的に激情犯罪をしやすい資質とされたが、犯行時は短絡行為による犯行で責任能力はあるとされた。
同年の6月7日に東京地裁で初公判が始まり、グリーンの上着とチェック柄のスカートで入廷したR子は殺意を否認し、「青酸ソーダ入りジュースを飲ませたのは間違いないが、人を殺すほど強い効力があるとは思わなかった」と小さな弱々しい声で述べた。
裁判は進み翌年2月18日に無期懲役の求刑に対し「犯行時未成年、母親と争ったあとの発作的な犯行」と情状が考えられ懲役15年の判決が言い渡された。
(【理由なき犯行】では判決が無期となっているが、事件日も事件場所も違う記載である。特定を防ぐ目的であえてそうしてると思われる)
【理由なき犯行1959】【ケース研究】
【昭和31年6月7日読売新聞夕刊】
【昭和32年2月18日朝日新聞夕刊】

実名報道

当時は未成年でも実名、顔写真、住所が新聞には掲載されるのが当たり前だった。R子も三大新聞すべて実名。朝日は顔写真も掲載していた。
今は殺人事件でも未成年は匿名で報道され、ネット上では犯人探しが加熱し誤情報まで飛び交い拡散し無関係な人も巻き込まれる事があるが、少年法が改正されて重大な犯罪は実名、顔写真の掲載も可能になったらどうなるか?
顔や名前が報道されたR子が出所後にどんな人生を歩んだのだろうか…







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