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㉓ 4人殺害すっきりした 松井永明(19)
一家四人殺害の惨劇
昭和28年9月15日早朝6時頃。大阪南区瓦町の菓子問屋で一家四人が角材やジャックナイフで惨殺される事件が発生した。同店店員三人が惨劇の場を発見し通報。事件から二時間半後にこの菓子問屋の店員の19歳の松井永明(新聞では松井永治という仮名)が近くの民家に潜伏中の所を情報を聞いて素早く現場に駆けつけ聞き込みをしていた大阪新聞の記者三人に発見され、凶器を投げ捨て「二階に上がってこい」とふてぶてしく言い、床に寝転んだところを取り押さえられ逮捕された。松井は取り調べ室で記者からの質問に「すまないなんて思っていない。スッキリした気持ち」「(両親には)ざまぁみろといった感じた」「これで安心した。死刑になりたい。世の中が嫌だ」と答えた。
【大阪日日53.9.16】
【昭和28年9月15日朝日大阪夕】
生い立ち
松井は父親と愛人との間に生まれた子である。当初は住む場所や仕送りを受けていたが途絶え、生母の実家や実父の妹方などに身を寄せで高等学校にも進学したが終戦後の貧困も重なり学校にも行けなくなり、幼少期は愛人の子としていじめにも会い、近所の中年女に性的ないたずらをされたことで歪んだ性格が形成されていった。
【刑資227】
滅私奉公の時代
今でこそ、労働基準法とかパワハラとか世の中が健全な方向に進んでいるが、昭和の時代には最低限の食事と小遣いを与える程度で休みも殆どなく働かされる事が往々にしてあったようだ。
事件があった辺り(松屋町)も古い菓子問屋が多く、住み込みで仕事を覚えるための労働という習慣があった。
十代での月給は千円から二千円、二十歳前後でようやく四~五千円、休みは月に2~3日。フロ代を店員持ちにしてる所もあったという。それでも暖簾分けで自分の店を持つ事を夢見る若者たち。
松井は日頃からそんな状況に反感を持っていた。
【昭和28年9月15日朝日大阪夕】
待遇に不満が爆発
事件があった菓子問屋に関して松井の同僚が取材に答えている。
「給料は食費を引いて三千円くらい。休みは月2回。ほとんど立ちづくめ。朝6時から夜11時まで。食事は朝昼はつけ物だけ」
こんな状況を打破したいと松井は同僚にこぼしていたようだ。
それだけではない。主人の奥さんから何かを指示される時に侮辱したような言い方をされていた事が殺意を大きくさせた原因といっている。
「奥さんをこらしめる」と事前にナイフまで買っている。(特に奥さんに対する殺意が強いのは幼少期の中年女からの性的なイタズラも影響してるのかと思う)
【昭和28年9月15日朝日大阪夕】
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裁判で死刑が確定
殺人4
昭和30年2月26日 大阪地裁 死刑
昭和31年2月20日 大阪高裁 控訴棄却
昭和31年12月21日 最高裁 上告棄却
【刑集37巻6号】【昭和30年2月26日朝日大阪夕】
【昭和31年2月21日朝日大阪】【昭和31年12月22日朝日大阪】【大阪府警察史第3巻】
※松井永明の死刑執行日は不明